拉致監禁をなくす会について
私たちの会は、未だに続く拉致監禁による強制棄教をなくすための会です。また、突然、座敷牢のようなマンションの一室に閉じ込められた方々と、その方を愛する家族、友人のための会です。
拉致監禁を経験した多くの方々は、身体は解放されても、精神的には、ずっと拘束され苦しみ続けています。なぜなら、如何なる理由があろうと、愛する家族から拉致監禁されるということは、それほど大変な衝撃を受けるからです。代表である私もその一人です。
この会は、後藤徹君や宿谷麻子さんらの被害者と、私が出会ったことをきっかけに、二年前から始まりました。
「12年もの監禁が、何故、放置されたのか?発覚しても、何故、裁かれないのか? 監禁下で心をいい加減に扱われると、体にまでかくも大変な症状が出てくるものなのか。監禁下での強制棄教は、親子や兄弟そして夫婦さえもここまで断絶させるものなのか。」
「このような惨劇を生み出す拉致監禁をなんとしても無くして、被害者の心をケアし、家族との関係回復を実現させたい!」このように思いが一致し、この会は出発したのです。
何故、家族が断絶してしまったのでしょう。自然な交流、つまり、本音の話し合いのためには、最低限、互いの身体的自由が共に保証されていなければなりません。本来、一方が座敷牢に閉じこめられている不当な環境で本音の話などあり得ません。さらに、もし、本音を言ったら、監禁からいつ解放されるとも知れない状況では、到底、本音の話など出来なくなります。
ところで、この座敷牢づくりは、なんと、一部のキリスト教の牧師さんが指導しているのです。実は、私自身、軟禁状態から脱出するためとはいえ、不本意ながらその作業(窓が中からも開かないようにする細工)を、日本同盟教団新津福音基督教会の松永堡智牧師とともに行ったことがあります。なぜ崇高な聖書の教えを説くキリスト教の牧師さんが・・・・と思われるかも知れませんが、異端裁判、魔女狩りという言葉を聞かれたことがあると思います。悲しいかな、私は牧師さんの心の中に、異端や魔女に対する憎悪の念が燃えているのを間近で感じました。そして、現代においては、火あぶりでなく、愛する家族に閉じこめられることで、生き地獄を味わわされるのです。
日本では現在、気に入らない思想を矯正するために無法地帯である座敷牢へ監禁することが許されています。座敷牢が、必要悪として、公認されているのが、日本社会の現状なのです。そして、実は、世界中の人々がこの日本の異常な現状に気づきつつあります。このままでは、日本は人権意識の低い国家と位置づけられてしまいます。
ただ、私達は、日本における新宗教の問題も感じています。
「和を以って貴(とおと)しと為す」という言葉に象徴される日本文化の精華は、日本のみならず世界にも認められています。自己主張を極力抑えて、秩序と協調性を重んじる日本人の美徳が、日本の発展の礎となったのは、疑いのないところでしょう。
しかし、一方で「一人ひとりは、神の子としてかけがえのない価値を持つ」という聖書の思想の下、信教の自由と個人の権利を長い歴史をかけて勝ち取ってきた欧米のキリスト教文化に比べると、日本では、一人ひとりの個性や自主性が軽んじられる傾向があるようで、日本の新宗教もその例外ではないようです。そして、これが行きすぎると、人権意識の欠如につながります。
ここで、皆さんにいま一度考えていただきたいのは、実は裏を返せば「家族であれば座敷牢は許される」という考えも根は同じで、「人権意識の欠如」がさらに暴走して「人権蹂躙」「犯罪行為」となってしまっているのでははないでしょうか?
拉致監禁という蛮行をなくすと共に、一人ひとりの個性や自主性、信仰を尊重し、家族や仲間がより自由に交流できる、そんな日本の家族のあり方、社会のあり方を目指して、拉致監禁をなくす会は、活動してまいります。
具体的な活動としては、拉致監禁の事実を人々に直接訴えかけ、知らせるべく街頭での情宣活動とビラ配りを定期的に行っています。また、臨床心理士に参加していただき、監禁された経験を持つ方が、思想信条の枠を超えて本音で語れる場を提供しています(サバイバーの集い)。さらに、婚約者が監禁された方の交流の場も始めました(セカンドサバイバーの集い)。会員同士が本音で語れる場(オフ会)と多くの方々と本音で語り合う場(シンポジウム)も行ってきました。さらには、閉じ込めた側と閉じ込められた側が、本音で語り合う場(親子、夫婦の集い)も定期的にできるようにしていきたいです。
当会の考えと活動の意義をご理解いただき、一人でも多くの方に参加していただきたく願っております。
2010年12月20日
拉致監禁をなくす会 代表 小出浩久