塩谷知子(当時25歳)の証言
事件の年 : 1993年
脱会説得者(所属) :
船田武雄(日本イエスキリスト教団・京都聖徒教会牧師)
事件の概要と経過 :
『そんなある日、母のレポート用紙の中から今回の監禁にあたっての綿密な計画が書いてある紙をみつけました。そこには、私をどの様にしてマンションに連れていくか、マンションでの生活内容、注意事項、親のとる姿勢、お風呂は2人ではいる、など、また、脱会届けを出したあとリハビリが必要なことまで、様々なことが書かれていました。
完全に牧師の指導を受けているとわかるものでした。
それを見たときは、本当にショックで、「もうだれも信用はしてはいけない」と固く心に決めたのです。
そして脱会を決意するまでは、絶対にここから出ることもできないということを、再び確認させられる出来事でした。・・・(本文より抜粋)』
塩谷さんは、大阪の実家に戻ったところを拉致され、京都市内のマンションに監禁されました。厳重な施錠と見張りを中、隙を見て8階のベランダから逃走を試みるも失敗。牧師の一方的な情報の影響と監禁下での強制説得という異常な環境により苦悶する両親。強制的に聞かされる統一教会の悪口、両親の苦しむ姿、牧師に対する怒りなど、地獄のようなマンション生活により塩谷さんの心身は次第に壊れていく。極限状態の中、やむなく偽装脱会を試み、京都聖徒教会での監視付きリハビリ生活に入る。愛する家族に対する思いと、婚約者が待つ統一教会に戻らなければとの焦り・・・その狭間での苦悩と葛藤の末、彼女に一つの思いがわき上がる。意を決して拉致監禁から107日目に京都聖徒教会を脱出し統一教会に戻った彼女。しかし、その後、塩谷さんを待ち受けていたのは、6年間にもわたる新たなアリ地獄のような生活だった。
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私は1993年12月24日、実家に家族の散髪を頼まれて帰った時に拉致されました。
わたしが帰るときに、両親が「駅まで送る」と言って一緒に家を出ました。
そして数分歩いた道端で突然サングラスをかけた数人の男女に取り囲まれました。
私は突然何が起こったのかわからず、とっさに大声で「助けて!」とさけびました。
しかし、どうにもならず、そのまま、車の中に、無理矢理押し込められたのです。
車は、私の乗っている車の前に1台、後ろに1台、トランシーバーで連絡を取り合いながら3台が走り出しました。
よく見ると、運転席には、親戚の叔父、助手席には父、妹と母は、私のうでをしっかりにぎっていました。
そしてそのまま京都のマンションに連れて行かれました。
車から降りても逃げないように腕をつかまれエレベーターの中では、何階で降りるかさえ見せてもらえませんでした。
部屋に入ると鍵とチェーンがかけられそのチェーンにさらに南京錠がかけられ私の靴までもどこかに隠されてしまいました。
わたしは、あまりにものショックとくやしさとで正常な気持ちでいることができませんでした。
こうしてわたしの拉致監禁がはじまりました。
「保護説得」という名目でそれらすべては京都聖徒教会の船田武雄牧師の指導を受け計画し準備し、両親は行なったのです。
また、母の従兄弟で、日本イエスキリスト教団 当時台湾宣教師 二ノ宮一朗氏もこのマンションの中に約2週間、一緒にいました。
両親は最初親族の紹介で、八尾ルーテル教会に相談に行き、そこでまず聖書の勉強をすすめられ、洗礼まで受けたそうです。
そこで京都聖徒教会の船田牧師を紹介され、京都聖徒教会で行われている相談会に参加するようになり、わたしの拉致を決行したのです。
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塩谷さんが69日間監禁されていた、京都市右京区太秦下刑部11-2グレイスヴィラのマンション
パニックになっている私に両親は「知子すまん。これしか方法がなかったんや。」と何度も言いました。
私は「こんなことして良心が痛むでしょう」と言いました。
○厳重な施錠と見張り
しかし、部屋には厳重に鍵がかけられており、トイレに行くときも父が見張っていました。
連れて来られた時のショックは、体が覚えていて、異常なほどの恐怖心と、寝るときも逃げないように見張っていましたから、非常に精神的苦痛を受ける日が始まりました。
両親は、私に話し合いをしたい、統一教会のことを詳しく知りたいので統一教会に詳しい牧師の話を聞いてほしいなどいろいろ言ってきました。
しかし、話をしてもどこまでも平行線で、完全に私を統一教会からやめさせる一方的なやり方であると感じたので、とにかく逃げるしかないと思い、3日目の明け方4時ごろベランダの窓の鍵をあけ、外にでました。
よく見ると8階で下に下りることはできず、2件先の家まで塀を飛び越えて、わたり、朝家の人が起きたら助けてもらおうと思っていました。
しかし、結局は両親に見つかってしまい、どうすることもできず、部屋に戻ったのです。
○統一教会信者を気違い扱い
それから数日後、元統一教会の女性や、船田牧師が訪ねてくるようになりました。
最初は、統一教会関係の本をたくさんもってきて、原理講論の間違いなどを話して帰りました。
私はいったいどうすればいいのかわからず、神に祈るばかりでした。
極端に言えば笑えばいいのか、泣けばいいのか、親の前で、牧師の前で、反論しても良いのか、どのように接すればいいのかずっと悩んでいました。
何を言っても受け入れてもらえなかったからです。
特に牧師は、統一教会の信仰を持つ人に対して、「狂ったもの、きちがい」の様にしか思っていなかったからです。
そんなある日、母のレポート用紙の中から今回の監禁にあたっての綿密な計画が書いてある紙をみつけました。
○完全に牧師の指導を受けている
そこには、私をどの様にしてマンションに連れていくか、マンションでの生活内容、注意事項、親のとる姿勢、お風呂は2人ではいる、など、また、脱会届けを出したあとリハビリが必要なことまで、様々なことが書かれていました。
完全に牧師の指導を受けているとわかるものでした。
それを見たときは、本当にショックで、「もうだれも信用はしてはいけない」と固く心に決めたのです。
そして脱会を決意するまでは、絶対にここから出ることもできないということを、再び確認させられる出来事でした。
船田牧師は、私が監禁されてから2週間ぐらいまではほとんど毎日のように訪ねてきました。
その中で原理の内容と従来の聖書の解釈の違いを比較し、文鮮明氏の路程などすべてを否定してきました。
○「偽装脱会するしかない」
私は、「人が神様から受けた啓示に対して他人がそれを嘘だと言える根拠がどこにあるのか」と思いました。
それは、本人と神様の間でしかわからない出来事なのに、それをあたかも文氏が嘘をついているように牧師は言い続けました。
しかし・・・・
うそをつかせてここに、連れて来さしたのはだれだ!
それを指導したのは、あなたじゃないか!
と、矛盾に満ちた牧師の話をわたしは、受け入れることができませんでした。
「偽装脱会するしかない」と思い何一つ反抗せず、ただ忍耐し続ける日々が続きました。
私の態度は、いつも牧師に報告されていたからです。
くやしくて、くやしくて、その思いをどこにもぶつけることができず、布団を何度も噛み泣きました。
40日ぐらいたったころ訪ねてきた元統一教会員の女性に「今どう思っていますか?」と聞かれ「信仰というものから離れたい」といいました。
しかしわたしが祝福を受けていること、そして、あまり自分の気持ちを口に出して言わないというところから、とても牧師側からは、警戒されていました。
○牧師に対する怒り
両親も2ヶ月を過ぎるとイライラし始め母は、「もう帰りたい」と何度か泣いたりしていました。
その姿に父は、「何を泣いてるんや!この問題で今も泣いている親がいっぱいいるんや!」と母を言いきかせていました。
そうすると母は、「わかってる、知子が統一教会の間違いがわかるまで死んでもここを出ない」と決意し直すのでした。
その姿を見たとき牧師に完全に一方的な情報を流されて精神的苦痛を負いながらも娘のためにと思って何も分からずにしている親があまりにもかわいそうに思えそれと同時に、牧師に対する怒りを抑えることができませんでした。
本当に、マンションの中は、地獄でした。
そのころ私も心身共に限界状態でした。
親子なのに両親を、姉妹なのに妹を、全く信じることができず本音で話ができないいつも緊張した状態の中で、気がどうにかなってしまいそうでした。
吐き気や頭痛、指先がしびれだし心も体も傷つき果てていました。
外の空気も全く吸うこともできず、食欲も、体力もなくなり、46kgあった体重が40kgまで痩せてしまいました。
14年たったいまでも体重が元に戻らないのです。
○主人も心に深く傷を負う
母が「教会の人が知子さんは何を考えているかよく分からないと言っているから自分の気持ちをはっきりいいなさい」と言われ、自分の気持ちを正直に言えば永遠に続くこの状態から逃れるために、「統一教会をやめる」という手段を選らばざるえませんでした。
牧師の許可を得て、ようやく69日目にマンションを出たのです。
マンションにいる間牧師は、「統一教会は、一方的教え込みであり、洗脳だ」といい、「文鮮明氏が「人を殺せ」といえば殺してしまうような恐ろしいテロ集団だ」と言っていました。
しかし、牧師の方こそ両親や親戚に、一方的に情報を流し込み、親の統一教会に対する反対の思いを倍増させ、良心では、”こんなことしたくない” と思いながらも、それが子供のためだと思えば拉致監禁という行為を行ってしまうまで、そうするしか方法がないように指導し、そこには、私の自由などいっさいなく、全く人権を無視した行為でした。
そして私の母からの「親子の話し合いをします」という1通の手紙だけを読み私の居場所が突然分からなくなった主人(当時は婚約中)は苦しみました。主人も心に深く傷を負ったのです。
マンションを出てから私は、京都聖徒教会へリハビリに行くことになりました。
ここでは、軟禁状態にありました。
○強制改宗牧師が「信仰は自由」?
牧師側では、今まで真実であると思っていたものが完全に否定され絶望感に陥りそれが深い心の傷になるので、原理の間違いを完全にしっかりわかっていないと普通の生活ができない、社会復帰もできない、その為に正しい真理、聖書の教えを学ぶ、ということで、教会に泊り込みでリハビリするということでした。
牧師は「信仰は自由だから強制はしない。」と言いました。
そして「また信仰していったらいい」という風にも言いました。
強制改宗をしている牧師がこのようなことを言っていることに対して、わたしは、ここには真理はないし、本当に自分が探しているものはないと思いました。
マンションを出るときは、家族が本当に疲れきった状態でした。
「こんな団体生活はできない」と帰った妹
父は、マンションを出る3日前に出て仕事に行き始めました。
教会では、私以外にリハビリ中のひとが5人、そして元統一教会員で保護説得活動をしたり、献身的に活動しているひとが3人、そしてクリスチャンの奉仕者の女性が一人いました。
そして船田牧師の家庭も暮らしていました。
牧師の家庭以外は、みんな一緒にねとまりしていました。
食事も自分たちで買い物して作ります。
食費一食いくらか決まっていたと思います。
リハビリ1日目は、母と妹も一緒に泊まりましたが、妹は「こんな団体生活は、自分はできない」と言って帰り私と母だけが残りました。
そこでの生活は、朝6時から早天(聖書の学び)があり、その日によって様々ですが、祈祷会、聖書の勉強会、伝道集会、賛美集会、家庭集会、日曜日には、礼拝と、午後1時から、統一教会問題の相談会、月半ばからは、統一教会問題の対策集会にでかけます。
参加することに対して強制はされませんが、基本的には、参加するようにしてくださいと、言われました。
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塩谷さんが軟禁されていた、日本イエスキリスト教団・京都聖徒教会
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母は最初わたしがトイレに行くときも、洗面に行く時もずっとついてきました。
でも母は、娘を信じたい思いで、そうすることがずっと苦痛だったようです。
○忍耐すればかならず道は開かれる
寝るときは、ドアの近くには、元統一教会員の人たちが寝て、私は、逃げないように一番ドアから遠いところで寝るように言われました。
ある時母が泣いているのを見つけ、「どうしたの?」と聞くと、「もう少し子供さんのことを考えて行動してください」と教会の人にいわれたようで、母も母なりに一生懸命しているのに、そう言われたことが、とてもつらかったようでした。
リハビリに入り私は、1週間後、脱会届けを書きました。
脱会届を書く時、すでに船田牧師のもとで脱会した人達が書いた脱会届けのコピーを見せられ、この様に書いたら良いと指導を受けて書きました。
その時の私は、牧師達の信頼を得ることでしか外に出る自由さえ得ることができませんでした。
脱会届けを書いた後、母に「パーマをかけに行きたい」と言い一緒に外を歩きました。
母と一緒でないと外に出ることは許されませんでしたが、外を歩けたときは、忍耐すればかならず、道は、開かれる、冬を越えて春を迎えてゆくような、希望を感じることができました。
○お風呂は船田牧師の家で
リハビリ中に、主人が友人と教会に訪ねてきてくれたことを後から聞きました。
「知子さんは、今は会いたくないと言っています。」と言われ追い帰されたそうです。
主人は、東京からわざわざ私を探して訪ねてきてくれたのですが、私に会うこともできず、そして私は、彼が訪ねてきたことすら全く知らされなかったのです。
リハビリが始まり20日ぐらいすぎたころから母が少しずつ体調を崩し始め、「知子さんもしっかりしてきたので大丈夫でしょう。」と教会の人に言われ、母は自宅へ帰っていきました。
母がいる間は、お風呂は、船田牧師の家のお風呂に入り、洗濯は、母が外のコインランドリーに行っていました。
母が帰ってからは、1人では外へは出ることができませんでしたが、だれかと一緒に銭湯や、コインランドリーへ出かけられる様になりました。
そんな中私は、親や妹が犠牲になり、私の為にしてくれたことを思うと、どうしてももう一度統一教会に帰る気持ちにもなれず、隠れキリシタンのようにいるしかないのか・・・などほんとに頭の中がおかしくなりそうなくらい考えました。
冷静に物事を判断する力などなかっただろうと思います。
○自分の気持ちに正直に生きたい
しかし、「統一教会の教えを通して救いを感じてきたことは、否定することはできない。」「彼はどんなに苦しんでいるだろうか・・・」と思うと、混沌とした状態が続き、「いったい私の人生は、誰のものなんだ!」と大声で叫びたい心境でした。
本当に苦しい日々が続きました。
自分自身の本心では、「自分の気持ちに正直に生きたい」という思いでいっぱいだったのです。
拉致監禁が生んだ大きな親子の溝
牧師達は、私がもう大丈夫だと信頼していた様子で、拉致されている兄弟の所へ一度一緒に訪問したり、これから拉致する予定の親や親族の方々が教会へ相談に来ている時に体験したことを話してあげてほしいと言われ、話をしたりしました。
しかしそうする中で、自分の本心が願わない行動をしていることがたまらなく苦しく、やはりここを出なければ自分という存在が自分でなくなってしまう。私は、わたしの心に偽らず正直に生きたい。宗教間の争いの犠牲になりたくない。
そう思い、脱走することを心に決めました。
リハビリ生活から38日目、拉致されてから107日目に私は、束縛された異常な環境からようやく逃げたのです。
牧師たちは完全に統一教会の信仰を失くしてしまうまでは自由を奪い、言葉では「保護説得」と美しい言葉を使いますが、完全に拉致監禁であり、本人の自由意志を全く無視し、「気が狂ったもの」のように扱われ、このような行為は、人格を破壊し、精神も身体も脅かす許されない行為であると実感しました。
そしてそのことによって、親であっても心から信じることができないおおきな溝が親子の間で出来てしまったのです。
私が逃げてからは、両親とは、ほとんど手紙だけのやりとりで3年間会うことは、ありませんでした。
逃げて来たときは、教会の組織には、帰らず私を助けてくださったご家庭にお世話になりながら少しずつ心癒されてゆく日々を過ごしました。
○拉致監禁で主人も人間不信に
そして私と主人は、そんな中で家庭を出発できたことを神様に感謝しました。
純粋だった主人は、拉致依頼とても人間不信に陥り、人と会うことを嫌いました。
主人の両親は、私たちの結婚を喜び結婚式も考えてくださっていたそうです。
しかし私の両親が拉致の話を主人の両親にももちかけていたため、それも実現することなく隠れるように2人の生活がはじまったのです。
主人は私の両親をとても恨みました。
この拉致監禁によってどれほど心をふみにじられたことかわからないのです。
○拉致監禁がもたらした蟻地獄のような6年間
私が少しでも両親の話をすれば、急に顔の形相が変わり、イライラし始め、どこにも持って行き場の無い思いを私にぶつけました。
時にはそれが、わたしへの暴力になったのです。
そしてとうとう主人は、自分にはどうすることもできない恨みと悲しみをかかえうつ病になったのです。
働くことも出来ず、働いてもすぐやめてしまう。
そんな自分を責め続け、どうしようもない思いを私にぶつけ続けました。
6年間あり地獄に入ったような日々が続きました。
そしてとうとう2006年の夏私は、うつ病になってしまったのです。
主人は今でも拉致のときの話をすると、怒りがこみ上げてきて、形相がかわります。
過去がフラッシュバックとなってよみがえり、解けない恨みが湧いてくるのです。
○15年経っても癒えない心の傷
拉致を直接されなかったとしても、このように、周りの家族も苦しみ、深く傷を負います。
そして15年たった今もまだその傷は癒えてはいないのです。
私は長い間十分に主人の痛みを理解することができず、私を責める主人を私も責め続けました。
しかし自分がうつ病になりその苦しみと拉致されたときの苦しみが重なり、主人の気持ちももう一度考えさせられました。
もちろんわたしが彼を怒らせたことも何度もあります。
しかし主人は私に「あなたに対する怒りは自分の腹の底にあるあなたの親に侮辱された恨みがそれをさらに大きくさせる」と言いました。
それを聞いたとき私と親だけの問題ではない深刻さを感じ、まだまだわが家庭はこの問題は解決していないことを改めて実感したのです。
○罪悪感もなしに拉致監禁を続ける牧師達
わたしも時々自分の無力さに落ち込み生きている値打ちも無いもののような気持ちになるときがあります。
統一教会の中でも十分に生きることができず、社会のなかでも十分に生きることが出来ず、ただ自分が探し求めているものを求め続け、近くの家庭教会につながり、ひっそりといまは、信仰を持っています。
ただ唯一3人の子供達に恵まれ子供は神様中心に育てたいと夫婦で思っています。
こんなにも信仰の自由を奪い親子関係にまで傷をつけ、それを、修復していくことが、どれほど時間と、気力がいることかわかりません。
正義感いっぱいでなんの罪悪感もなしに拉致監禁を続ける牧師達がいることは、絶対に許し難い行為です。
私の体験は、氷山の一角でもっともっとたいへんな方々がいると思います。
拉致被害者の方々!共に声をあげていきましょう!
2008年12月28日 塩谷知子
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