後藤徹12年5か月拉致監禁事件
「2008年2月13日、監禁解放後3日目の写真 撮影:米本和広氏」
○後藤徹12年5か月監禁事件の概要
私は現在、監禁中に脱会説得にやってきた宮村峻氏を刑事告訴しています。捜査、裁判のことを配慮し、取りあえず、私のインタビューをもとにまとめられた米本和広氏の『我らの不快な隣人』のエピローグを転載します。なお、出版社ならびに筆者の了解は得てあります。一部に記載ミスがありますが、それは訂正してあります。
なお、読みやすくするため、中見出しは私がつけました。 2009年2月 後藤 徹
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築地の寿司屋で麻子の正社員採用を祝っているとき、私の心の中には、晴れないモヤモヤしたものがあった。
それは、つい数日前に監禁現場から出てきた後藤徹(四四)の痩せ衰えた姿が、どうしても目にちらついてしまうからだった。麻子がビールを注いでくれると、彼女と年齢がほとんど変わらない後藤のこれまでの体験や、これからの人生のことを考え込んでしまう……。
統一教会から連絡が入ったのは、麻子が寿司屋を予約してくれた頃、○八年二月一二日のことである。少々、興奮した声だった。
「後藤徹さんという信者が二月一〇日に監禁場所から出てきて、本部に助けを求めてやってきた。一二年五ヶ月間も監禁されていたという。痩せ細っているため、一心病院に緊急入院した」
とっさに浮かんだのは「新潟少女監禁事件」だった。少女が監禁されていたのは九年。それより三年も長い一二年。にわかには信じられなかったが、すぐに病院に駆けつけた。
面会室に、後藤は車椅子で入ってきた。車椅子から備えつけの椅子に移ろうとするが、よろけてしまう。一人で立つことができないから、手を取って介添えした。
身長は一メートル八三センチなのに、体重はわずか三九キロしかないという。
写真を取りたいから、パンツ一枚になって欲しいと頼んだ。
時間をかけて服を脱いだ後藤の裸体は、目を背けたくなるほど貧弱な身体つきだった。骨と皮に、申し訳程度にくっついている萎えた筋肉。太ももからからくるぶしまでは、死に行く老人のそれと同じだった。右足の親指は水虫が悪化し変色していた。そのことを聞くと、「家族に何度も薬を買ってきてくれと頼んだけど、無視されたために次第に悪化していったんです」という。
受け答えはしっかりしていて、私がもっとも心配したPTSD(心的外傷後ストレス障害)の症状は見られなかった。
医師の所見によれば、「全身筋力低下,廃用性筋萎縮(特に両下肢)、栄養失調、貧血」
廃用性筋萎縮とは「筋肉を使わないために筋肉組織が退化して小さく弱くなった状態」のことである。
短時間だったが、事件の概要を教えてもらった。
主な登場人物は両親、兄(四七)、兄嫁、妹(四一)、それに株式会社タップ社長の宮村峻、新津福音キリスト教会の牧師松永堡智である。兄、兄嫁、妹の三人はいずれも元信者で、兄は宮村峻、兄嫁は宮村と松永の強制説得を受けている。兄は脱会後、宮村のタップに就職し、○一年には弁護士の山口広や紀藤正樹たちが代理人となった「東京・青春を返せ裁判」を提起している。
以下の事実経過は、後藤徹の一人称で綴ることにする。括弧内は私の補足説明である。
私は、八六年に兄の勧誘によって統一教会に入信した。大学四年生のときだ。八七年に日本大学理工学部建築学科を卒業し、大成建設に入社した。
一回目の監禁は八七年一〇月のことだった。
音信不通となっていた兄から連絡があり、京王プラザホテルの一室に入ったところ、監禁された。そのあと、宮村峻が元統一教会信者を数人連れて部屋に来るようになり、脱会説得を受けた(『「脱会屋」の全て』の著者、鳥海豊と同じパターンである)。
兄の後日の話によると、宮村の説得を希望する信者家族は大勢いて、順番待ちリストの最後尾は数百番目。兄はタップの社員であり、熱心に宮村の脱会説得活動を手助けしていたため、説得の順番を早めてくれたという。
偽装脱会を装い、一一月下旬頃、荻窪栄光教会の日曜礼拝に参加したとき、トィレに行く振りをして教会から脱出した。
無届け欠勤していた大成建設は、辞めざるを得なかった。会社に頭を下げて復職しても、再度家族から拉致されるかも知れないという恐怖心もあった。
八八年末には、妹が拉致監禁され、脱会した。
私は、桜田淳子や山崎浩子の参加が話題となっていた九二年の合同結婚式に参加した。しかし結婚相手の日本人女性はソウルから帰国後、脱会説得を受けて信仰を失い、結婚生活に入ることができなかった。
九三年、兄が結婚した。兄嫁は宮村と松永から脱会説得を受けた元信者で、「新潟・青春を返せ裁判」を提起した一人だった(『人さらいからの脱出』の著者、小出浩久は偽装脱会中に「新潟・青春を返せ裁判」の集会に参加している。おそらく、後藤の兄嫁とも会ったことがあるだろう)。
九五年八月、ソウルで行われた国際合同結婚式に参加した。
しかし、九月に二回目の監禁に遭い、結婚生活を始めることはできなかった。
九五年九月一一日の夜、保谷市(現、西東京市)の自宅に帰宅したところを、両親、兄、また庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって四方八方を囲まれ、左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされて、ワゴン車に連れ込まれた。後日判ったことだが、見知らぬ男性は、宮村が経営していた「タップ」の社員(元信者)だった。
監禁場所は、新潟のマンションだった(後藤の拉致は、麻子が早稲田通りで拉致される二ヶ月前の話である)。
保谷市から新潟に運ばれるときは、トイレに行かせてもらえず、家族から渡されたビニール製の携帯用簡易トイレで用を足さざるを得なかった。屈辱的だった。
新潟のマンションには両親、兄嫁、妹が一緒に住み、兄は東京で働いていたため、休みの日にやってきた。兄は私にこう宣言した。
「言っておくが、この問題は絶対に許さんからな。この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし、この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは、覚悟しておけ」
兄の言葉は単なる上辺だけのものではなかった。
新潟時代には兄と兄嫁は別居、一二年間監禁生活を共にした妹はいまだ独身だ。「どんな犠牲を払っても」という兄の言葉は嘘ではなかった。
監禁説得にやってきたのは、新津キリスト教会の松永堡智だった。
九六年、父は入院し、心臓のバイパス手術を受けた。父が癌で亡くなったのは、監禁から二年後の九七年六月のことだ。享年六五歳だった。
保谷市の自宅の通夜に参加したあと、今度は東京荻窪のマンションに移動させられた。このマンションには半年間いただけで、九七年一二月に移った「荻窪フラワーホール」の八〇四号室で、母、兄、兄嫁、妹から監視される新たな一〇年間に及ぶ監禁生活が始まった。
私は一番奥のベランダに面した部屋に連れて行かれ、普段はそこに居るように、部屋の襖は常に開放したままにするようにと宣告された。一度、玄関から脱出が可能かどうか確認しようと、玄関が見える位置まで行ったことがある。玄関は内側からクサリと南京錠で開かないようにされていた。兄は「シッ、シッ」と言って手の甲を私の方に向けて振り、私を奥の部屋に追いやった。
私は人間扱いされていないと感じて、「これじゃまるで犬扱いじゃないか。俺は人間だぞ!」と言って抗議した。
脱出を試みたことがあるが、兄から足技を掛けられて倒され、取り押さえられてしまった。
翌年の九八年一月頃から、宮村峻が元信者を引き連れてやってくるようになった。いずれも宮村が強制説得した元信者だった。自宅で拉致されたときに庭に潜んでいた宮村の会社の社員もやってきた。
宮村と元信者たちは、あらゆる非難、中傷、罵倒を浴びせかけ、何度も「バカ」「アホ」と私を侮辱した。「これは監禁だ、人権侵害だ」と何度も抗議したが、そのたびに宮村は怒鳴り返してきた。
「えらそうなことを言うな。お前に人権を主張する資格などない」
「俺はお前を監禁なんかしてない。家族が保護しているんだ。出してもらいたければ家族に言え」
「自分の頭で考えられるようになるまではここから出られないぞ」
「もし自分の子どもが統一教会を辞めなければ、俺は家に座敷牢を作って死ぬまで閉じこめておく」
元信者の高森洋子(仮名)は、あぐらをかいて座り、タバコを吹かしながら、「卑怯者、あの時あんた逃げたでしょ!」と怒鳴り、四谷景子(仮名)は私が話をしているときに、突然、出されていた緑茶を私の顔面に浴びせた。〈注一〉
兄は、私を糾弾している最中に急に立ち上がり、「本当ならぶん殴って半殺しにしてやるところだ!」と絶叫し、妹は「こんな調子だったら永遠にこのままだから覚悟して」と脅迫めいたことを口にした。
私は〈もういっそのこと死んでしまいたい〉と思った。
彼らの統一教会批判に、私が具体的に反論すると、いつもきまって「お前は全然人の話を聞いていない」「自分の頭でよく考えろ」監禁中、何百回この言葉を聞かされたかわからない。「聞いている」「自分で考えている」とその度に反論するけど、彼らは「いや、聞いていない」「考えていない」と言って頑として受け入れない。結局のところ、彼らの言う「聞いていない」「自分の頭で考えろ」の意味は、〈俺たちが言う統一教会批判を全然聞き入れようとしない。自分の頭で考えているんだったら、統一教会信仰の間違いに気がつくはずだ〉ということだ。
宮村が来るたびに、私は『原理講論』に「正」の字を書いて回数を記録したが、合計で七三回だった。
こんなことがあった。宮村が来たとき、私は風呂場に入って「監禁だ!」と言って叫び続けた。すると宮村は、風呂場に入ってきて私の首の後ろの襟を掴み、私を風呂場から引きずり出した。
一年ぐらい経ってから、宮村たちは顔を見せなくなった。〈注二〉
宮村が姿が見せなくなっても、監禁は続き、家族だけでの説得は続いた。
九九年一二月、私は世の中のことが分からないまま年月が経過していくことに激しい不安感を感じ、家族に対し、『現代用語の基礎知識』を持ってくるよう要求した。ところが、この要求を拒否されたため、家族等との間で激しい言い合いとなった。私が激怒して、「畜生、出てやる、ここから飛び降りてやる」と、奥の部屋の窓に突進した。窓の内側の障子が破れ、障子のサンが折れた。これに家族は怯んだのか、翌年の一月、『現代用語の基礎知識』を持ってきた。また、この頃から産経新聞を私に支給するようになった。『現代用語の基礎知識』や産経新聞により世の中の情報を知れば知るほど、私はマンションの一室に監禁された状態で世の中から取り残されていくことに、極度の不安を感じるようになった。
○一年二月になると、私は〈このままでは、世の中から隔絶されたまま一生ここから出られない〉との押さえがたい不安感に襲われ、玄関目がけて突進し、脱出を試みるようになった。あらん限りの力を尽くしたが、家族から取り押さえられてしまう。私は大声で「出せ」「助けてくれー」「警察を呼べ」と叫んだ。そのたびに、家族は布団で私をくるみ、口を押さえつけた。息が出来なくなり、窒息しそうになった。
長期間の監禁によって、ほとんど運動する機会がなかったため、兄と一対一で揉み合いになっても、いつも取り押さえられ、羽交い締めにされた。何度も揉み合いになった。私の顔や手足から出血して血だらけになり、着ていた上着はボロボロに破かれてしまった。出血は畳にもしたたり落ち、私はタオルで手や畳を拭いた。夜は体中が痛み、寝ることができなかった。
こうした揉み合いによって、多くの家具が損傷した。台所の棚は変形し、アコーディオンカーテンが破れた。家族は、私の抗議行動に危機感を感じたらしく、私が抗議行動を起こすと玄関と部屋の間の木戸を施錠し、開閉できないようにした。
私はいつしか脱出を諦めた。家族も私を説得しなくなった。しかし、監禁から解放されることはなかった。解放した場合、私が彼らを訴えることを恐れたためだと思う。私が「弁護士を立てて訴えてやるからな!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言って彼らを糾弾したことが、彼らにとっては相当の脅威となったようだ。家族は宮村の指示を仰ぎ、口封じのために私を監禁し続けたのだと思う。
〇四年の四月、二一日間のハンガーストライキを決行した。
「もう八年だぞ! 当時生まれた人間はもう小学二年生だ。こんなに閉じこめて人権侵害だ!」
「三〇代というのは人生で最も気力体力が充実している時だ。それを社会から隔絶された所に閉じこめられてまるまる奪われたんだぞ。どうしてくれるんだ」「いったい何回、選挙権を奪ったと思っているんだ!」と抗議した。
しかし、家族は意に介するようなことはなく、私を批難する兄嫁は次第に興奮して半狂乱になると、畳に座っていた私の目の前に正面から正座して座り、全身の力を振り絞って平手打ちで思いっきり私の顔を叩いた。何度も、何度も――。
ハンガーストライキも後半になると体はフラフラになり、歩くのも身動きするのも大変になったため、横になることが多くなった。トイレに行くのも大変で、立って用を足すことができなくなった。
二回目のハンストは〇五年四月、三回目のハンストは〇六年四月に行なった。家族は私の反抗に腹を立てたのか、三〇日間の三回目のハンストが終わってからは、食事らしき食事をさせてくれないようになった。私は家族等の目を盗んでは、炊飯前の水に浸してある生米を少しずつ抜き取って食べ、餓死を免れた。家族がここまでやるとは本当に予想外だった。
その後、食事は少しまともになったものの、家族は普通の食事だったのに、私には粗末な食事しか出されなかった。朝はパン一枚に飲物一杯。昼はご飯一杯、味噌汁一杯、のり四枚、漬け物と小魚少々、梅干し。夜はご飯一杯、味噌汁一杯、漬け物、小エビ、納豆が定番だった。兄嫁は、私に出した粗末な食事を指して、「ものすごく豪華な食事だ」とからかい、私を人間扱いしなかった。
妹と揉み合いになり、妹が両手で私の胸辺りを強く押して突き飛ばされたことがある。私は身体がよろけて数歩後退し、背中から食器棚にぶつかった。私の体力はこの程度までになっていた。
〇七年一一月頃になると、兄嫁は私に対して、「あんたこの部屋を維持するのにどれだけお金がかかっていると思っているの」「部屋を出るとき、あんたが壊したこの部屋を全部リフォームしないといけないのよ」と文句を言うようになった。働いているのは兄だけで、経済的にかなり苦しくなりつつあるようだった。
○八年二月一〇日の午後四時頃のことだ。兄夫婦、母、妹の四人が突然、「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」と私に命令してきた。
「一二年間も監禁しておいて無一文で追い出すなんて酷いじゃないか!」と喚いたが、結局、家族によって力づくで追い出されてしまった。
玄関の外で倒れている私に、革靴を投げつけてきた。
家族の精神も肉体も経済も限界に達したのだと思う。
自由の身になれたとはいうものの、体力的に衰弱した中、所持品も着替えもなく、かつての知り合いがどこにいるかも分からない中で、〈一体、これからどうやって生きていったらいいのか〉という不安が襲ってきた。
渋谷の統一教会本部に向かうしかなかった。青梅街道から新宿方面に歩き始めてから四時間ぐらいしたところで力尽きてしまった。通行人に頭を下げて、お金をもらった。タクシーに乗って、何とか本部教会に辿り着くことができた。
本部教会で夜間受付の男性に事情を説明したところ、一二年間監禁されていたという話はにわかに信じてもらえなかった。〈注三〉
麻子からビールを注がれながら、後藤徹が監禁されていた一二年五ヶ月という途方もない歳月を考えてしまう。
麻子にとってもこの一〇年は苦しみの日々だった。しかし両親、続いて親戚も拉致監禁が間違っていたと麻子に謝罪し、親子はひとつ屋根の下で暮せるようになった。そして社会復帰をようやくにして果たした。それも会社から正社員として採用されたのだ。
「だんだん拉致監禁のことに関心が向かわなくなりつつあります」と話すにこやかな麻子を目にすると心が和むが、しばらくすると、また後藤のことが頭をよぎる。
麻子にとっての「終わり」は、後藤にとっては「始まり」である。これから、人生の一番いい時期を無駄に過ごした拉致監禁体験と、後藤は向き合うことになる。〈注四〉
〈一体、これからどうやって生きていったらいいのか〉という後藤の言葉が耳をついて離れない。
後藤から話を聞いたあと、荻窪に出向き、「荻窪フラワーホーム」の場所を確認した。天沼陸橋のすぐそばにある古びた細長いマンションだった。
外から眺めると、八〇四号室の窓は開放され、布団やタオルケットなどが日干しにされていた。
晴れ渡った青空のもと、後藤の気持ちをよそに、布団やタオルケットは風になびき、ようやく解放されたが如く自由に揺れていた。
〈注一〉あとで調べてみると、後藤が話した高森と四谷は後藤の兄とともに「東京・青春を返せ裁判」を訴えた原告だった。「青春を返せ」と統一教会を訴えながら、一人の青年の青春を奪ってしまう。皮肉な話である。高森洋子は、鳥海豊や小出浩久の脱会説得現場にも登場した。(本文へ戻る)
〈注二〉後藤は、宮村が来なくなった理由はよくわからないという。以下は、私の推測である。九九年一月に今利理絵、二月にアントール美津子、五月に富澤裕子が牧師たちを相手に提訴した。前の二件は日本基督教団の牧師を相手にしたものだが、裕子が提訴したのは神戸真教会牧師の高澤守だった。第一〇章で触れたように宮村と高澤は近しい関係にあり、裕子の監禁されていた神戸のマンションにわざわざ東京から二人の元信者を連れて、裕子の説得に出向いていた。後藤徹の脱会説得の最中、九八年の三月九日のことである。宮村は〈このまま脱会説得を続け、もし後藤徹が脱出したりすれば、今度は自分が訴えられる〉と考え、怖くなったのではないか。とはいえ、後藤を解放するわけにはいかない。そのため家族には、このまま監禁を続け、家族たちで説得するように指示したのではないかと思われる。(本文へ戻る)
〈注三〉後藤の話を聞いたあと、宮村の自宅を確認していると、偶然にも宮村本人が姿を現した。小柄で白髪まじりの、年齢相応(六三歳)の初老の男で、これといった特徴のない人物だった。質問にはときおり眼光鋭く答えた。立ち話でのインタビューの詳細は省略するが、後藤徹の説得に出向いたのは、「数年前に一年間か一年半だ」と正直に答えた。「緊急入院となった後藤さんを見舞ったけど、一人で立ち上がることができないほど痩せ細っていた。可哀相な感じがした」と水を向けると、宮村は顔色ひとつ変えることなく、平然とこうもらした。
「後藤が断食なんかするからだよ」私は質問で断食のことは話していない。それなのに、宮村は断食のことを知っていた。家族から後藤徹の様子について、逐一報告を受けていたということの証左であろう。話はそれるが、私は宮村と一緒にやってきてきたという高森洋子(仮名)のことが気になっていた。信頼できる筋から、「全国弁連」の事務局員をしているSという女性(私は二度会っている)と同一人物だと聞いていたからだ。裏を取ることができないでいたため、宮村に思い切って、問い質してみた。すると拍子抜けするほど悪びれることなく、「ああ、そうだ」と認めた。もし宮村の答えが正しければ、高森洋子は「全国弁連」の事務局員をしながら(いつ事務局員になったかは不明だが)、東京地裁に通い、そして監禁場所に出向いていた。水面下と水面上を行き来する人物ということになる。ちなみに、高森が住んでいるマンションは、後藤が監禁されていた「荻窪フラワーホール」から歩いて五、六分、宮村の自宅からはやはり歩いて二〇分弱のところにあった。(本文へ戻る)
〈注四〉後藤はその後、荻窪警察署に「刑法第二二〇条の逮捕監禁罪、第二二一条の逮捕監禁致傷罪、第二二三条の強要未遂罪に該当するもの」として、宮村、松永、母、兄、兄嫁、妹を刑事告訴した。荻窪警察署や検察がどう動くかは興味深い。九年間に及ぶ「新潟少女監禁事件」の犯人は、懲役一四年の実刑判決を受けている。親兄弟が監禁した場合は、監禁が一二年五ヶ月間に及んでいても、富澤や元木の刑事告訴と同じようにまた「起訴猶予処分」とするのだろうか。もしそうなら、親は自分の思い通りの子どもに育てるために監禁してもよいことを国家が認めたことになる。そうなれば、パターナリストの親にとっては「福音」となる。(本文へ戻る)
○後藤徹12年5ヵ月監禁事件・陳述書
荻窪警察署に「刑法第二二〇条の逮捕監禁罪、第二二一条の逮捕監禁致傷罪、第二二三条の強要未遂罪に該当するもの」として、宮村峻、松永堡智、ならびに家族を刑事告訴している件ですが、2月3日付けで東京地方検察庁に書類送検されました。
以下、陳述書を掲載いたします。この陳述書により、この事件の全貌をより詳しく知っていただけると思います。 2009年02月 後藤 徹
※ 書類送検とは、
「犯罪容疑者の身柄を拘束することなく、事件に関する調書 ( 取り調べた書類 ) だけを検察庁に送ること」
巣鴨警察署長殿
陳 述 書
1.略歴
私は1963年11月2日、山形県米沢市にて父○○(昭和6年11月25日生まれ、1997年6月22日死去)、母○○(昭和7年12月10日生まれ。現在75歳)の間に次男として出生しました。兄弟は、兄、○○(昭和35年3月28日生まれ。現在48歳)と、妹、○○(昭和42年2月14日生まれ。現在41歳)とがいます。
1970年4月、私は東京都武蔵野市立大野田小学校に入学し、1972年9月に東京都保谷市立保谷第一小学校に転校し、1976年3月、同小学校を卒業しました。
1976年4月、私は保谷市立青嵐中学校に入学し、1977年に熊本県八代市立八代第二中学校に転校し、1979年3月、同中学校を卒業しました。
1979年4月、私は熊本県立氷川高等学校に入学し、1982年3月、同高等学校を卒業しました。
1983年4月、私は日本大学理工学部建築学科に入学し、1987年3月、同大学を卒業しました。
1987年4月、私は大成建設株式会社に入社しました。
2.統一教会への入会
1986年8月、大学4年の時、兄からの紹介で東京御徒町のビデオセンターに通うようになりました。そこは、世界基督教統一神霊協会(以下、「統一教会」と言う)の信者らが運営するビデオセンターで、私はビデオを通して統一教会の教理である統一原理を学びました。その後ツーデーと呼ばれる2泊3日の修練会、及びフォーデーと呼ばれる4泊5日の泊まりがけの修練会に参加し、統一原理の内容に感銘を受けたため、統一教会に入会しました。
修練会に参加した後は、学生部という大学生の信徒らで組織する部署に所属し、ホームと呼ばれる寮で寝泊まりして生活しました。 兄は私に続いて、当時短大生だった妹も伝道しました。妹は短大近くのビデオセンターで統一原理を勉強するようになり、統一教会に入会しました。
1987年3月、私は日本大学理工学部建築学科を卒業し、同年4月より大成建設株式会社に入社しました。同社入社後は、御徒町のホームに寝泊まりしつつ、通勤しました。
3.第1回目の監禁
1987年5月頃、兄が、現在の西東京市(当時保谷市)の自宅に帰った際に、家族らによって監禁され脱会説得を受けました。兄が後日話したところによると、兄は両親らによって車に乗せられ、監禁場所に向けて連行される途中、踏み切りで車が止まった際、車の窓から外に逃げ出したそうです。そこで、両親らと揉み合いになり、警察沙汰にまでなったのだそうですが、結局監禁場所に連れて行かれたとのことでした。
兄に対して脱会説得をした脱会説得の専門家の一人は宮村峻といって、株式会社タップという広告代理店を経営している人物で、後日私に対する2度に亘る拉致監禁に関与したのもこの宮村です。宮村は、当時、荻窪にある日本イエスキリスト教団荻窪栄光教会の森山諭牧師と組んで、同教会を拠点に複数の統一教会信者の父兄等から、彼らの子である信者を脱会させる依頼を受け、父兄等に順番待ちをさせ、順番が来るまでの間、拉致監禁による脱会説得の手法を父兄らに指導していました。
宮村が組織していた父兄らの会を水茎会と言い、水茎会では、順番が回ってきた父兄は、既に信者の脱会に成功した父兄らの協力を得て自分の子を拉致し、荻窪栄光教会近隣のマンションの一室に監禁するというシステムができており、そこに宮村が来訪するなどして脱会説得が行われました。私も後日順番待ちの父兄の名簿を見ましたが、そこには父兄等の名前がびっしりと記載されていました。聞くところによると、順番待ちの父兄の最後尾は数百番代になるとのことでした。
兄は統一教会を脱会後、宮村が行う統一教会信者に対する脱会説得活動を手助けするようになりましたが、更に前記株式会社タップに就職し、宮村のもとで鞄持ちのようにして働くようになりました。父兄の名簿上は、私に対する脱会説得の順番はずっと後であったところ、兄が余りにも熱心に宮村の脱会説得活動を手助けしたため、私を脱会説得する順番を早めたということを、私は後で聞かされました。
1987年10月、しばらく音信不通となっていた兄から突然連絡があり、「教会のことで話をしたい」と言われて私は新宿に呼び出されました。兄に言われるまま京王プラザホテルの一室に入ると、部屋の中には既に両親が待機しており、私は兄等から脱会説得を受けました。気がつくと、部屋の入り口のドアは何らかの細工により中から開かないように固定され、部屋から出られない状態になっていました。
私は一方的に監禁されたことに憤慨し、「出せ!」と叫んで騒ぎ立てました。このため両親及び兄と取っ組み合いになりましたが、多勢に無勢のため取り押さえられました。その後、宮村峻が元統一教会信者を数人連れて部屋に来るようになり、脱会説得を受け、棄教を強要されました。3日くらい後、私は信仰を持ったままでは部屋から出られないと判断し、意に反して脱会した振りをしました(偽装脱会)。
約1週間後、京王プラザホテルから杉並区荻窪のマンションの一室に連れて行かれ、同室にて1ヶ月弱監禁されました。私は常に両親及び兄によって監視された中、同室から前記荻窪栄光教会の礼拝等の集会に参加させられたり、近隣のマンションの一室で監禁されている統一教会信者の脱会説得に同席させられました。荻窪栄光教会の集会には、宮村や森山によって脱会させられた元統一教会信者等が多数来ていましたが、その中の一部は、兄のように宮村らの脱会説得活動に積極的に荷担していました。また私は、同教会のほぼ向かいにある一軒家で水茎会の集会が開催された際、これに参加させられ、宮村が父兄らを指導している場面を目撃したこともあります。
監禁ないし監視されている間、私は会社にも連絡を取ることは許されず、欠勤を強いられました。
11月下旬頃、私は荻窪栄光教会の日曜礼拝に参加させられた際、トイレに行く振りをして教会建物から脱出し、ホームに逃げ帰りました。
4.第1回目の監禁から脱出後の経緯
ホームに帰ってより後は、職場に戻ると再度家族等から拉致されるかも知れないという恐怖心があったため、戻ることができませんでした。このため大成建設を退社し、その後は、信徒組織にて献身的に伝道活動や教育活動に従事するようになりました。
1988年末頃には、妹が両親、及び兄等によって拉致され、脱会しました。
兄は、脱会後、宮村が行う統一教会に対する反対活動に加わるようになり、1991年には東京地裁に統一教会を被告とする損害賠償請求訴訟(いわゆる「青春を返せ裁判」)を提起しています。
1992年8月、私は○○という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた3万双の国際合同結婚式に参加しましたが、日本に帰国後、○○さんは家族らによって脱会説得を受け、信仰を失いました。このため、○○さんと結婚生活を開始することはできませんでした。
1993年頃、兄は○○という女性(以下、「兄嫁」と言う)と結婚しました。兄嫁も、親族に拉致監禁され、宮村、及び松永堡智(日本同盟基督教団新津福音キリスト教会牧師)らから脱会説得を受けて統一教会を脱会した元統一教会信者で、脱会後は統一教会に対する反対活動を行うようになり、1991年に新潟地裁で「青春を返せ裁判」を提起しています。
1995年8月、私は○○という統一教会の女性信者と共に韓国ソウルで行われた36万双の国際合同結婚式に参加しました。既に年齢も31歳となっていたことから、この頃より私は将来家庭を持つことに備えて、統一教会での信仰は続けつつも信徒組織での活動を辞め、一般の仕事に就くことを考えるようになりました。
しかし、同年9月に私が2回目の拉致監禁の被害に遭ったため、○○さんと結婚生活を始めることはできなくなりましたし、また、一般の仕事に就くこともできませんでした。
5.第2回目の監禁(今回)
(1) 新潟のマンションでの監禁
1995年9月11日夜、東京都西東京市の自宅に帰宅して滞在中、両親、兄、及び庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって四方八方を囲まれ、左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされて、家の中から引きずり出され、ワゴン車に監禁されました。後日判ったことですが、庭に潜んでいた男性は、宮村が経営する株式会社タップの従業員でした。
ワゴン車には家族及び見知らぬ者達が乗り、見知らぬ男性が運転しました。私は彼らによってワゴン車に監禁されたまま新潟に連行されました。連行途中、私は用を足したくなり、トイレに行きたいと要求しましたが、家族等はトイレに行くことを許さず、代わりにビニール製の携帯用簡易トイレを私に手渡し、これで用を足すようにと言いました。このため私は見知らぬ者達の同乗するワゴン車の中で用を足さざるを得ず、大変屈辱的な思いをさせられました。
新潟のマンションの部屋は、窓が全てストッパーで固定され開かないようにされていました。また玄関は内側から施錠できるタイプの玄関で、私が部屋に入れられた後、施錠されました。
同室では両親、妹、兄嫁が監禁場所に常駐して私を監視し、棄教を強要しました。私が同室で監禁されていた最中、兄は東京で働いていたため、時々顔を見せる程度でしたが、来る度、私に棄教を強要しました。
特に、私を監禁して間もない頃に兄は私に対して、「言っておくが、この問題は絶対に許さんからな。この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし、この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは、覚悟しておけ」と言って、私が完全に棄教するまで絶対に監禁から解放しない旨述べて、私に棄教を強要しました。
そして、この兄の言葉は単なる上辺だけのものではありませんでした。兄を始め家族等のこの異常な決意によって、私は合計12年5ヶ月間に亘って監禁されたのです。しかも、後述の通り私が3度に亘る命がけのハンガーストライキを決行しなければ、この監禁は今なお継続していたとも言えるのです。
その他兄は、「窓から飛び降りたら絶対に死ぬぞ」と言って、私が窓からの脱出を図らないよう牽制し、「死なない程度に悩め」と言って私に精神的苦痛を与えました。
また同室には前記松永らが来て私に対し脱会説得を行い、棄教を強要しました。
1995年12月末、私はこのままでは監禁状態から解放されることは不可能であると判断し、意に反して脱会した振りをし、意に反して脱会届を書きました。しかし、私が脱会を表明した後も、家族等は私を監禁し続けました。1987年の1回目の監禁の時、私が偽装脱会をしていたため、今度は家族等が慎重になったのだと思います。
1996年、父が入院し、心臓のバイパス手術をしましたが、私は一切監禁から解放されませんでした。
1997年6月22日、父が癌で死去(65歳)しました。
(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁
父の死後間もなく、私は「父と最後のお別れをするから」との理由で再度ワゴン車に監禁され東京の自宅に連行されました。私は再度新潟のマンションに戻ってくるものと思ったことから、財布、免許証、現金などの所持品は新潟のマンションに置いたままにしていました。
このとき、新潟のマンションに脱会説得に来ていた元統一教会信者の男性がワゴン車を運転し、助手席には兄嫁が座りました。また、運転席の後ろの席には、兄嫁の2人の兄が中央及び右端に座り、左端には元信者女性が座りました。また最後列には、右端に妹、左端に○○と名乗る元信者男性が座り、私は、中央に座らされました。最後列中央に座らされたのは、私が脱出できないようにするためだと思います。
父の亡骸が安置されている西東京市の自宅に着くと、そこには、母、及び兄が既に来ており、私はそこで父の亡骸と対面しました。この後ワゴン車に監禁され、ワゴン車の中で初めて兄から、「もう新潟には戻らない」ということを聞かされました。私はワゴン車により、都内1カ所目のマンションに連行され、同マンションの3階か4階の一室に監禁されました。
同室の玄関ドアは内側から特殊な鍵がかけられていました。また、窓からは脱出できるような高さではありませんでした。また、新潟のマンションに置いたままにしていた財布、免許証、現金などの所持品は、ついに私の手元には返却されませんでした。ある日、私が同室にて玄関の近くに行っただけで兄は、「向こうに行ってろ!不愉快だ」と怒鳴りつけ、玄関に近づくことを許しませんでした。
(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁
1997年12月末頃、母、兄夫婦、妹及び多くの見知らぬ男性らによって再度ワゴン車に監禁され、荻窪フラワーホームという名称のマンション(杉並区荻窪3-47-15)に連行され、同マンションの804号室に監禁されました。
荻窪駅より歩いて10分弱のところにある荻窪フラワーホーム
ラーメン二郎荻窪店のすぐ近くに位置する。
同室で私は一番奥のベランダに面した部屋に連れて行かれ、普段はそこに居るように言われました。私は同室到着後間もなく、玄関から出ることが可能かどうか確認しようとして、玄関が見える位置まで行ってみました。すると、玄関は内側からクサリと南京錠で開かないようにされているのがはっきりと見えました。
この様子を見た兄は、「シッ、シッ」と言って手の甲を私の方に向けて振り、私を奥の部屋に追いやりました。私は人間扱いされていないことを感じ、「これじゃまるで犬扱いじゃないか。俺は人間だぞ!」と言って抗議しました。
また、窓は全て施錠できるタイプのクレセント錠が取り付けられており、専用の鍵によって施錠されていました。同室にて、母、兄、妹、兄嫁が、私が逃げないように監視しました。私は普段はベランダに面した一番奥の部屋にいるように言われ、しかもその部屋の襖を開放したままにするよう言われました。
新潟のマンションに監禁されて以来、監禁期間は2年3ヶ月間に及び、脱会の意思表明をしてからも2年を超えたにもかかわらず、私は一向に監禁から解放されませんでした。
膠着状態が続く中、私はいつまでも信仰を失った振りをし続けることに我慢ができなくなり、804号室に監禁されてより間もなく、信仰を失っていないことを家族等に対して表明しました。このため家族等は、偽装脱会するなど不当だと言って激しく私を非難しましたが、これに対して私は、家族等が行っていた監禁を手段とした棄教強要こそが不当であり、人権侵害であると強く抗議しました。
私が偽装脱会していた事実を表明した結果、私は同室にて、家族や後日同室に来訪した宮村等からあらゆる非難、中傷、罵倒を受けることとなり、徹底的な棄教強要を受けるようになりました。
804号室にて信仰を維持していることを表明して間もない頃、私は脱出を試み玄関に向かって行きました。ところが、兄から足技を掛けられて倒され、取り押さえられました。玄関ドアに南京錠及びチェーンによる施錠があるだけでなく、力づくで脱出を拒まれたことから、私は同室からの脱出を断念させられました。
(4) 宮村等による脱会説得
1998年1月初旬から同年9月頃にかけて、宮村峻が元信者等を引き連れて804号室に来訪し、棄教強要を行うようになりました。宮村等が同室に滞在する時間帯は午後6時頃から午後8時頃までで、当初宮村は毎日来訪しました。同行した元信者は、○○(女)、○○(女)、宮村の会社の従業員(男)○○夫婦、○○(男)、○○(男)、○○(女)といった者達です。宮村の会社の従業員(男)は、私が1995年9月11日に自宅から新潟に連行された際、自宅の庭に潜んでいて、私に対する逮捕監禁に荷担した人物でした。
宮村、及び○○を始めとする元信者等は、同室に来訪する度、あらゆる非難、中傷、罵倒を私に浴びせかけました。○○は最初に804号室に来た際、不作法にもあぐらをかいて座り、タバコを吹かし、「卑怯者、あの時あんた逃げたでしょ!」などと言って、1回目の時(1987年)私が脱出したことを厳しく非難しました。
私は宮村等に対しても、「ここから出せ!」「あんたら、統一教会は人権侵害をしていると言うが、統一教会は人を監禁したりしないぞ!あんたらの方が人権侵害をしているじゃないか!」「信教の自由を何だと思っているんだ!」と言って激しく抗議しました。
しかし宮村は、「えらそうなことを言うな。お前に人権を主張する資格などない」「俺はお前を監禁なんかしてない。家族が保護しているんだ。出して貰いたければ家族に言え」「お前は全然人の話を聞いていない」「頭を使え。自分の頭で良く考えろ」「自分の頭で考えられるようになるまではここから出られないぞ」「もし自分の子供が統一教会を辞めなければ、家に座敷牢を作って死ぬまで閉じこめておく」などと述べて私に棄教を強要しました。
また、宮村や○○は、脱会説得の最中、私に対して「馬鹿」「あほ」といった言葉を頻繁に使い、私を侮辱し続けました。宮村に同行してきた元信者らも、宮村に同調して私に罵声を浴びせました。○○という元信者は、私と話をしている最中、突然、出されていた緑茶を私の顔面に浴びせかけました。このため私は、着ていたTシャツがびしょぬれになりました。
更に、私の家族も宮村等による棄教強要に加わりました。兄は、私を糾弾している最中に急に立ち上がり、「本当ならぶん殴って半殺しにしてやるところだ!」などと絶叫したこともあります。また妹は、「こんな調子だったら一生このままだから覚悟して」などと言って、私を脅迫しました。
また、宮村らが帰ると、その直後から今度は家族等による糾弾が午後9時頃まで続きました。ある時兄は、「お前、ここまで言ってもまだわからんのか、目を醒まさせてやる」と言って、私の顔を平手打ちで叩きました。
以上の様な、家族及び宮村や○○等による、人間性を無視した棄教強要によって極度に苦しい日々が続きました。その時に受けた精神的苦痛のため、「私はもういっそのこと死んでしまいたい」と思うほどでした。
宮村や家族が頻繁に使う言葉に、「お前は全然人の話を聞いていない」「自分の頭で良く考えろ」といった言葉があり、私は監禁中、何百回この言葉を聞かされたか分かりません。私は彼らの話を良く聞いた上で、自分で考えて反論していましたので、「聞いている」「自分で考えている」とその度に反論しましたが、彼らは「いや、聞いていない」「考えていない」と言って頑として受け入れませんでした。
結局のところ、彼らの言う「聞いていない」の意味は、実際には、「お前は俺たちが言う統一教会批判を全然聞き入れようとしない」の意であり、また、「自分の頭で考えろ」の意味は、「統一教会信仰の誤りを認めろ」という意味だったのです。即ち、私が彼らの統一教会批判を聞き入れ統一教会信仰の誤りを認めて棄教するまでは、絶対に監禁から解放しない、というのが、彼らの変わらない主張だったのです。
宮村等が804号室に来始めて間もない頃、インフルエンザが猛威を振るい、私も含め家族のうち何人かがインフルエンザに罹りました。このため私は40度近くの高熱が出て寝込みましたが、医者には行かせて貰えませんでした。そして、インフルエンザに罹った他の家族が病院に行った際、その家族のために処方された薬を、私にも飲まされました。私がインフルエンザに罹っている間は、宮村等は来ず、兄は「小休止だ」などと言っていましたが、私が回復すると、直ちに宮村等が来訪し激しい棄教強要が再開しました。
宮村は徐々に同室に来る回数が減っていき、1998年9月を過ぎるとしばらく来なくなり、元信者だけが同室に来るようになりました。私は、宮村が同室に来る度に、『原理講論』という統一教会の教理解説書に「正」の字を書いて回数を記録しましたが、1998年9月頃までの間、宮村が同室に来た回数は、全部で73回でした。
なお、宮村と共に来た○○という女性は、かつて私と同じ部署にいたことがあり、写真説明書掲載の写真にも映っていますが(写真2の前列右から2人目、写真3の前から2列目右端)、私が監禁された後に家族等によって連れ去られて脱会させられたのだと思います。
1999年12月、私は世の中のことが分からないまま年月が経過していくことに激しい不安感を感じ、家族に対し、『現代用語の基礎知識』を持ってくるよう要求しました。ところが、この要求を拒否されたため、家族等との間で激しい言い合いとなりました。私が激怒して、「畜生、出てやる、ここから飛び降りてやる」と言って奥の部屋の窓に突進したところ、窓の内側の障子が破れ、障子のサンが折れました。
これに家族は怯んだのか、2000年1月、『現代用語の基礎知識』を同室に持ってきました。また、この頃から産経新聞を私に支給するようになりました。その後新聞は、産経新聞から東京新聞に変わりましたが、2006年6月頃からは東京新聞も支給されなくなりました。
(4-2) 宮村等による脱会説得
『現代用語の基礎知識』や産経新聞により世の中の情報を知れば知るほど、私はマンションの1室に監禁された状態で世の中から取り残されていくことに極度の不安を感じるようになりました。そして2001年2月になると、私は「このままでは、世の中から隔絶されたまま一生ここから出られない」との押さえがたい不安感に襲われました。
このため私は玄関目がけて突進し、脱出を試みるようになりました。そして家族から取り押さえられる度、私は力の限り近所中に聞こえるくらいの大声で、「出せ」「助けてくれー」「警察を呼べ」と何度も何度も繰り返し叫び、命がけで脱出を試みました。
そして家族に対しては、「統一教会は人権侵害をしているというが、あんたらのやっていることの方が人権侵害じゃないか。統一教会はこんな風に人を監禁したりしないぞ!」「これは拷問だ!」「現代の魔女狩りだ!」「一体何回選挙権を奪ったと思っているんだ!」「こんなことが許されると思っているのか?あんたらのやっている蛮行は必ず白日の下にさらしてやる!」「弁護士を立てて訴えてやる!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言って糾弾しました。しかし、私は兄、妹、母によって取り押さえられ、はがいじめにされ押し倒されました。
家族は私の助けを求める叫び声が近所に聞こえるとまずいと思ったらしく、布団で私をくるみ、口を押さえつけました。このため、私は息が出来なくなり、窒息しそうになることもありました。長期監禁により殆ど運動する機会がなかったためか、この頃私は、兄と一対一で揉み合いになっても取り押さえられ、羽交い締めにされてしまいましたが、更に妹と母が女性であるにもかかわらず半狂乱になり、まるで何かに取り憑かれたごとく怪力を発揮したため、私は3人から取り押さえられると全く歯が立ちませんでした。
こうした揉み合いにより私は顔や手足から出血して血だらけになり、体中アザだらけになり、着ていた上着はボロボロに破かれました。手足からの出血は畳にもしたたり落ち、私はタオルで手や畳を拭きました。このうち1枚のタオルはまだ家族が持っているかも知れません。
また、夜は体中が痛み、寝ることができませんでした。私は風呂に入るとき、アザだらけになった体を兄に見せ、「これを見ろ、ひどいじゃないか!」と激しく訴えましたが、兄は、「俺もそうだ」などと言って私の訴えを相手にしませんでした。私はこうした揉み合いの最中、右手薬指を捻り、骨が曲がってしまいました。この時は激痛が走り、この痛みは2~3ヶ月間ほど続きました。
また、こうした揉み合いの最中、家財が随分と損傷しました。私は、家族等から取り押さえられまいとして台所の棚(数本の金属棒で構成されている棚)の金属棒や、中央の部屋と玄関前の部屋との間のアコーディオンカーテンにしがみつきましたが、家族等が無理矢理私を引っ張ったため、台所の棚の金属棒は変形し、アコーディオンカーテンは破れました。
家族等は、私の抗議行動に危機感を感じたらしく、私が抗議行動を起こすと玄関と部屋の間の木戸を施錠し、開閉できないようにしました。
私は、こうした激しい抗議行動を約1ヶ月間に亘って繰り返しましたが、この間、宮村が804号室に2度来ました。最初に来たのは私が抗議行動を起こした最初の日で、私が玄関に向かって行ったとき兄はすぐに私を取り押さえると、妹に「おい」と言って目配せし、妹に携帯電話で電話を掛けさせ、宮村を呼びました。宮村はすぐに804号室に駆けつけましたが、既に私が兄によって取り押さえられた後だったため、様子を見ただけで帰りました。
2回目に宮村が来たとき、私は風呂場に入って「監禁だ!」と言って叫びました。すると宮村は、風呂場に入ってきて私の首の後ろの襟を掴み、私を風呂場から引きずり出しました。
私はどんなに力づくで脱出を試みても取り押さえられる上、更に厳重な監禁状態になってしまったことから、言いようのない虚脱感と絶望感に襲われるようになり、遂に力づくでの脱出を断念させられました。
一方、こちらから要求もしないのにビデオテープ、イヤホン、卓上電気スタンドなどが、ベランダに面した部屋に持ち込まれました。また、あらゆるジャンルの書籍を兄が持ってくるようになりました。
この頃以降、私が2004年4月に第1回目のハンガーストライキを決行するまでの間、家族等による脱会説得は殆どなくなりました。また、宮村及び元信者等は804号室に来なくなりました。
今にして思えば、長期監禁に対し後日私が彼らを訴えることを恐れたのだと思います。監禁から解放されてより後に知ったことですが、実に前年の2000年8月には、宮村と懇意にしているキリスト教神戸真教会の高澤守牧師が、同牧師によって逮捕監禁、脱会強要の被害を受けた統一教会信者から訴えられた民事裁判で敗訴していました。
また、同室にて脱会説得活動を殆どしなくなったにもかかわらず彼らは私を804号室に留置し続けましたが、これも、私を解放した場合、私が彼らを訴えることを恐れたためだと思います。即ち家族や宮村等は、自分達の犯行が明るみに出ることを恐れ、口封じのために私を監禁し続けたのです。私が「弁護士を立てて訴えてやるからな!」「そっちが犯罪者になるぞ!」と言って彼らを糾弾したことが、彼らにとっては相当の脅威となったようです。
2001年9月12日、1987年の第1回目の脱会説得の際、私と会ったことがあるという脱会説得の専門家(男性)が1日だけ804号室に来て脱会説得をしました。この男性は翌日も来ると言って帰りましたが、その日以降、同室には来ませんでした。
(5) ハンガーストライキの決行(第1回目21日間)
2004年4月、このままでは一生監禁されたままで終わるのではないかとの恐怖心に襲われましたが、2001年2月にはどんなに私が脱出しようとしても取り押さえられた経緯があったことから、遂に私は21日間のハンガーストライキを決行し、長期監禁に抗議しました。
私は家族に対して、「もう8年だぞ!当時生まれた人間はもう8歳だ。こんなに閉じこめて人権侵害だ!」「30代というのは人生で最も気力体力が充実している時だ。それを社会から隔絶された所に閉じこめられてまるまる奪われたんだぞ。どうしてくれるんだ」「一体何回選挙権を奪ったと思っているんだ!」「これを人権侵害と認識できないというのは、あんたらの考え方がよほど狂っている。何でそれがわからないのか。それこそ非常識じゃないか」「これは拷問だ!」などと言って抗議しましたが、家族等は「全く人の話を聞こうとしない」「自分の頭でよく考えろ」などと言って私を糾弾し、私に棄教を強要しました。
兄嫁は私を激しく非難する中で興奮して半狂乱になると、畳の上に座っていた私の目の前に正座して座り、全身の力を振り絞って平手打ちで思いっきり私の顔を叩きました。そして興奮して私を非難し続け、しばらくすると再度同じように思いっきり私の顔を平手打ちで叩きました。多いときはこうして4~5回は平手打ちで私の顔を力一杯叩きました。兄嫁は水泳をしていたことがあり、筋肉質で体格が良く、私は叩かれる度に上体が大きく揺れました。
このため私は顔面が常に痛みました。ある時、兄嫁も手のひらを痛めたらしく、長期間に亘って右手親指の付け根に湿布を貼っていました。このような暴行が、私がハンガーストライキを始めた4月から始まり、9月に至るまで頻繁に繰り返されました。
また兄嫁は、私をいじめ抜きました。兄嫁はある時、興奮して私の背中に氷水を流し込みました。また、兄嫁は、私がハンガーストライキを終えて食事をしている最中に、私の目の前に電気スタンドを置き、そこに私を茶化す絵を貼りつけて、「これを見ながら食べろ!」と言って私を愚弄し続けました。その紙には、私が座禅している姿が描かれ、その下に「真理を追求する男、私の名は徹」との注釈が書き加えられていました。
兄嫁は、このような暴行やいじめを行いつつ、「性根の腐った人間に人権などない」と言って、虐待を正当化しました。
ハンガーストライキも後半になると体はフラフラになり、歩くのも身動きするのも大変になったため、横になることが多くなりました。トイレに行くのも大変で、トイレで何度か倒れそうになり、立って用を足すことができなくなりました。
21日間に亘るハンガーストライキ後、約1ヶ月かけて重湯からお粥、お粥から普通のご飯へと戻していき、普通食に戻しました。この間も、最初は体がフラフラでした。
ハンガーストライキ中、一番痩せていたときは、飢餓状態の人のようになりましたが、約1年かけて元の体重に戻りました。
(6) ハンガーストライキの決行(第2回目21日間)
2005年4月、私がハングルを勉強するための教材を持ってくるよう家族に要求したところ、兄嫁及び妹がこれを拒否し、激しい言い合いになりました。
私は調理用の金属製ボール2つを叩き合わせたり、ボールで冷蔵庫等を叩き回って抗議しましたが、家族は頑として私の要求を聞き入れませんでした。そこで私はこの言い争いをきっかけに、長期監禁に抗議して第2回目のハンガーストライキを21日間決行しました。
すると家族等は、ハンガーストライキが終わっても粗末な食事しか出さず、食事制裁によって私を虐待し、棄教を強要しました。私が兄嫁に、「1回目のときは1ヶ月で普通食に戻したのに今回は何でこんなに長いのか?兵糧攻めか?制裁のつもりか?」と言って抗議し、「いつ普通食に戻すんだ?」と聞くと、兄嫁は「それは分からない」と言ってとぼけました。
結局、粗末な食事しか出さないことによる虐待は7ヶ月間続きました。このため、体がフラフラの状態が長く続きました。
私は荻窪フラワーホーム804号室に監禁されていた最中、右足の親指に水虫を発症しました。私が薬を要求したところ、最初は家族は薬を支給してくれましたが、2006年頃からは要求しても薬を支給してくれなくなりました。このため、右足親指の爪が変形したままとなりました。
水虫のために爪が変形した右足親指
同室では何故か家族全員、目が疲れ易くなり、私も含め皆が目薬を投与しましたが、私に水虫薬が支給されなくなったのと同じ頃から私にだけは目薬が支給されなくなりました。このため、私は目がとても疲れやすくなりました。
2005年終わりか2006年の初頭頃、私が使用していた電気スタンドの電球が切れました。私が家族に対し、新しい電球と取り替えるよう要求しても、家族は新しい電球を支給してくれませんでした。
解放後すぐの後藤さんの手
(7) ハンガーストライキの決行(第3回目30日間)
2006年4月、私が家族にノートを持ってくるよう要求したところ、兄嫁及び妹がこれを拒否し、またしても激しい言い争いになりました。そこで私は、今度は以前にもまして長期のハンガーストライキを決行しない限り監禁から解放されることはないと思い、3回目のハンガーストライキを30日間決行しました。
すると家族等も私の反抗的な態度に激怒し、私がハンガーストライキの終了を宣言しても丸一日、重湯等の食事を出しませんでした。私は飢餓状態で体がフラフラであったため、「殺す気か!」と言って抗議しましたが、家族は「お前は何を言っているんだ。そっちで勝手に断食しておいて勝手に食事を出せとは何事だ!」「馬鹿じゃないのか!」「死ぬまでヤレ!」と言って頑として食事を出しませんでした。
このため私は、「このままでは本当に殺される」と思い、大変な恐怖心に襲われました。そこでしかたなく、平身低頭して食事を出すよう頼まざるを得ませんでした。私が頼み込んだ末、家族はようやく翌日から重湯少々とポカリスエットを薄めたものを出すようになりました。但し、ポカリスエットは1日に500CCを2回のみでした。
しかも妹は、機嫌が悪いときは、ポカリスエットを支給する時間を数十分遅らせました。わずか数十分の遅れですが、この仕打ちは飢餓状態だった私の身体にはとてもきつく、私は家族のいいなりになりました。
最初に重湯が出された日の朝、私が他の家族の食事が見えない位置に座って重湯を飲もうとすると、兄嫁はテーブルの上をバンと叩き、私に対し「ここに座りなさい!」と言って食卓全体が良く見える位置に座るよう強要しました。私は、再度重湯を出さないことによる虐待を受けることを恐れ、兄嫁の横暴な要求にも関わらず、指示された位置に座らざるを得ませんでした。こうして兄嫁は、ただでさえ飢餓状態にある私に彼らの食事を見せつけ、更なる精神的苦痛を与えました。この時の屈辱は、忘れることができません。
このような流動食のみの食事は70日間にも亘って続けられ、固形食は出されませんでした。流動食では何も食べていないのと同じで、30日間ハンガーストライキをした後、引き続き70日間に亘って断食を強要されたのと同じことになりました。このため体は痩せこけ、餓死寸前の人のようになりました。体力的には最もきつい状態が続きました。これでは身体が持たないため、私は家族等の目を盗んでは、炊飯前の水に浸してある生米を少しづつ抜き取って食べ、餓死を免れました。私は家族等がここまでやるとは本当に予想外でした。
私は、監禁中に読んだ新聞のコラムで、かつて1980年代にアイルランドの反政府勢力(IRA)の20代の若者達が、40日間ないし70日間のハンガーストライキによって複数死んだことが取り上げられていたのを読んだことがあったため、自分も30日間のハンガーストライキ後、流動食しか出されない状態がこのまま続いたのでは生命の危機に瀕するのではないかと危惧し、同年7月上旬頃、食事を戻すよう頼み込みました。
これに対し、兄嫁はこれを拒みました。しかし兄は、このまま私が死んだ場合、殺人罪に問われることを恐れたのか、他の家族に対し、「もうそろそろ食事を元に戻してもいいのではないか」と提言しました。これを聞いた兄嫁は「えー、信じられない!」と言って憮然とした表情でいかにも残念そうに言いました。このやり取りを見て、兄嫁が私を本気で廃人にしようとしていたことが分かりました。
食事を元に戻すといっても、最初の4ヶ月間は、重湯が三部粥に、三部粥が七部粥にと徐々に変化し、普通のご飯等が出るようになったのは4ヶ月経ってからでした。しかもその後も、朝はパン1枚に飲物1杯、昼はご飯1杯、味噌汁1杯、のり4枚、漬け物と小魚少々、梅干し等、夜は、ご飯1杯、味噌汁1杯、漬け物、小エビ、納豆といった粗末な食事しか出されず、その期間が最後まで続き、その精神的・肉体的苦痛は過酷を極めました。
他の家族は通常通り普通食を食べていました。しかも兄嫁は、私にだけ出されている粗末な食事を指して、「ものすごく豪華な食事だ」などとあべこべなことを言い、私を人間扱いしませんでした。
同年9月、安倍政権誕生がニュースで報じられていた頃、部屋の掃除をしていた妹が、私がビデオデッキで使用していたビデオテープをいきなり取り上げて持って行こうとしました。私がこれを奪い返そうとしたところ、妹と揉み合いになり、ビデオテープは妹によって破壊されてしまいました。
また、妹との揉み合いの最中、兄嫁が部屋に入ってきて、テレビのアンテナケーブルを取り上げてしまいました。私は体力的に妹1人に対しても全く太刀打ちできなかったため、兄嫁がテレビのアンテナケーブルを持って行くことに対しては、これを阻止する気力すら湧いてきませんでした。
この日以来、再度私はテレビもビデオも見ることができなくなってしまい更なる精神的苦痛を受けました。妹は、804号室での監禁年数がかさむに連れて、私をぞんざいに扱うようになっていましたが、兄嫁と妹は、私がテレビを見ているのがとても気に入らなかったようです。
また、ある日、兄嫁が私の書籍を勝手に部屋から持ち出そうとしました。そこで、返して貰おうとして玄関前の部屋まで行ったところ、兄嫁から「こっちに来ないでよ」と激しい口調で言われ、アコーディオンのカーテンを越えて玄関前の部屋に入ることを禁止されました。当時は更に貧しい食事による食事制裁を加えられることに対する恐怖感があったため、兄嫁の言いなりになるしかありませんでした。
(8) 監禁からの解放
2007年11月頃になると、兄嫁は私に対して、「あんたこの部屋を維持するのにどれだけお金が掛かっていると思っているの」と言って私を非難し、2001年2月に私が約1ヶ月間に亘って804号室からの脱出を試みては家族らから取り押さえられるということを繰り返した際、台所の棚やアコーディオンカーテンが壊れたことに関しても、「あんたどれだけこの部屋を壊したら気が済むの?部屋を出るとき、全部リフォームしないといけないのよ」と言って私を非難しました。もやは家族等は、804号室での監禁を継続することが経済的にかなり苦しくなりつつあるようでした。
また、万一私が再度ハンガーストライキをして死ぬようなことにでもなれば、もっと面倒なことになるという危機感が、彼等を襲っていたと思いますが、この頃から、私を監禁している家族の間でも、監禁をこれ以上継続するか否かで意見が分かれ始めたようです。
2008年1月頃、私は自分の髪を切るため鏡を貸すよう要求し、妹がいた玄関前の部屋の近くまで行きました。すると妹が、「入ってこないでよ」と激しい口調で言い、両手で私の胸辺りを強く押して突き飛ばしました。このため私は身体がよろけて数歩後退し、背中から食器棚にぶつかりました。当時の私の体力はこの程度のものでしたが、それでも私を監禁中の殆どの期間、家族は、何か用事があっても最低2人は804号室に残るようにし、私に対する監視を怠りませんでした。
同年2月10日午後4時頃、兄夫婦、母、妹の4人が私に対して「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」と言って804号室からの退去をいきなり命令してきました。
私は著しく衰弱しており、財布など所持品は返して貰えず、また着替えもない状態で生活のあてもなかったことから、「12年間も監禁しておいて無一文で追い出すなんて酷いじゃないか!」と言って激しく抗議しました。すると揉み合いになり、家族等は力づくで私を追い出そうとしました。
そこで私は、台所の棚やアコーディオンカーテンなど至る所にしがみついて抵抗しましたが全く歯が立たず、担ぎ上げられ、普段着に靴下のまま玄関から無理矢理外に押し出され、玄関前のコンクリートの廊下部分に背中から押し倒されました。
私が仰向けになったまま起き上がれずにいると、兄が玄関の中で「靴、靴」と言い、その後、家族の誰かが私の革靴を投げつけてきました。この後玄関ドアが閉められ、鍵が掛けられました。この時の揉み合いで、私は手の甲や手首から出血し、セーターは破かれました。余りの仕打ちに玄関ドアを叩きつけ大声を張り上げてしばらく抗議したところ、兄が玄関の内側から「うるさい」と叫びました。
解放後すぐの後藤さんの手2
私はやむなくエレベーターで下に降りました。1階に下りると集合ポストがあり、804号室のポストには名札入れのところに、GOTOとローマ字で書いた紙片が貼ってありました。また、1階玄関から外に出た際、同マンションが杉並区荻窪3-47-15の荻窪フラワーホームであることを確認しました。
自由の身になれたとはいうものの、体力的に衰弱した中、所持品も着替えもなく、仕事も生活の宛ても無く、かつての知り合いがどこにいるかも分からない中で、一体これからどうやって生きていったらいいのかという不安が襲ってきました。
そして、渋谷の統一教会本部教会以外、荻窪近辺の統一教会の場所が分からなかったため、私は歩いて本部教会に向かいました。
青梅街道を新宿方面へと向かうと、途中交番があったため、電車代を借りようとしました。ところが、この時、破れたセーターにジャージに革靴というみすぼらしい服装の上、脱水症状気味のためガラガラ声しか出ず、しかも事態を要領よく説明できずに金策を申し入れたためか、浮浪者と間違えられたようで、「規定を満たさない」と言われ、断られてしまいました。
しかたなく、警官から渋谷方面への道順を教えて貰い、再び歩き始めました。荻窪フラワーホーム804号室では、食事制裁を受ける中、常に空腹状態で苦しいながらも、運動不足を解消するため、一日15分は簡単な運動をしていましたが、このことが幸いしてか、しばらくは歩くことができました。
ところが、青梅街道から中野坂上の交差点を右折して山手通りに入り、渋谷区に入った辺りから、両膝の下が急に痛くなり始めました。更に初台の辺りまで来ると、膝ががくがくしてきたため、前屈みになり膝に手を添えて歩くようにしました。しばらく進むと道端に木の棒が落ちていたのでこれを杖の代わりにし、非常にゆっくりとしたペースで少しづつ前進しました。
マンションを出て4時間くらいかけて漸く渋谷区松濤2丁目の交差点まで来ましたが、遂に膝の激痛のため一歩も歩けなくなってしまいました。しかも夜になり道も分からなくなってしまいました。
通行人に統一教会本部への道順を尋ねたところ、2人目に声を掛けた通行人がたまたま帰宅途中の統一教会信者であったため、道順を教えて貰いました。「歩いても行ける距離」とのことでしたが、もはや歩行困難であったため、タクシーを拾って貰い、タクシー代として千円を出して貰って何とか本部教会に辿り着きました。
本部教会で夜間受付の男性に事情を説明したところ、12年間監禁されていたという話をにわかに信じて貰うことができず、最初は不審者と間違われ相手にして貰えませんでした。
しかしその人が、拉致監禁問題に詳しい人に電話で連絡をとったところ、確かに「後藤」という男性信者が長期監禁されているという情報を高澤牧師の監禁から逃げ帰った信者が伝えてくれたことがあるということで、信じて貰うことができ、建物の中に入れて貰うことができました。
本部で夕食を出して貰い、この日は1階の奥にある和室で泊めて貰うことになりました。ところが、就寝する頃、トイレに行こうとしても這ってしか行けず、トイレまで行っても用を足せない状態になっていました。
このため、「何かあったらいけない」ということで、夜中の0時頃に教会本部からタクシーで豊島区北大塚の一心病院まで送って貰いました。一心病院で夜間診療を受けたところ、栄養失調と診断されました。また、歩行不能であったため、私は同病院に緊急入院しました。
入院後の経緯
入院後の経緯
2月11日(午前2時頃)に一心病院に入院した頃は、立とうとすると膝の骨に激痛が走るため、独力での歩行ができない状態が続き、2月下旬頃まで車椅子を利用しました。その後、歩行器を利用するようになり、3月4日頃から松葉杖と歩行器を併用するようになりました。
一人では立つことができない歩行不能の状態の後藤さん
3月10日頃になると、杖を使用するようになりましたが、階段を自由に上り下りできるまでには回復しませんでした。
3月20日頃になると杖を使わずに歩けるようになり、ゆっくりであれば階段を上り下りできるようになりましたが、長時間の歩行はまだできない状態でした。このためリハビリを継続し、3月31日に退院しました。
現在も、走ることはまだできませんし、早歩きをしようとしてもしずらい状態です。また、徒歩で30分くらい買い物に出ただけで膝や足首に痛みを感じますし、翌日は、ももやふくらはぎに筋肉痛が残ります。座るときは、あぐらはかけますが、足首に痛みがあるため正座はできません。またあぐらの状態で立ち上がろうとしても、手を床につくなどして体を支えないと足の力だけでは立ち上がることができません。12年間に亘る長期監禁と、2月10日の脱出時に膝を痛めたこととが、今なお身体に重大な影響を及ぼしていることを強く感じます。
一心病院に入院して2~3日後、ウイルス性の胃腸炎を起こし、しばらく下痢が続きました。これも、長期監禁により内臓の抵抗力が弱っていたためだと思います。
12年5ヶ月に亘る監禁中、外の景色を見る機会が殆どなかったこと、2006年初頭頃からは、電気スタンドの電球が切れたまま、新しい物を支給されない中で活字を読んだこと、目が疲れても目薬を支給されなくなったことなどが影響してか、監禁前には1.5あった視力が、0.2に落ちていました。このため、監禁前には裸眼で運転免許をとることができたのに、今は眼鏡がなくては車も運転できません。もっとも、運転免許証の書き換えには行けなかったので免許は失効しており、車を運転しようとしたら、最初から免許を取り直さなければなりません。
2月13日、ジャーナリストの米本和広さんが見舞いに来てくれました。私は米本さんに監禁中のいきさつを話し、また、取材に協力するため写真撮影に応じました。
歩行不能のため車椅子に乗っている後藤さん
なお翌日、米本さんが荻窪フラワーホームや宮村の家を取材に行ったところ、宮村が出てきて暫く話し、私に対し脱会説得をするためフラワーホームに来たことを認めたとのことでした。
また、宮村は私が長期監禁され家族から虐待されたために痩せ細ったことについて、「後藤が断食なんかするからだ」と言ったとのことです(2008年3月5日付米本和広陳述書)。
私がハンガーストライキを始めたのは2004年4月のことであり、宮村は2001年2月に最後に804号室に来て以降も、私の家族等と連絡を取り続け、私に対する監禁を共謀し続けていたことが上記発言で明らかとなりました。
ところで、ハンガーストライキ自体、監禁から解放されるためやむなく行ったことであり、2004年に21日間、2005年に21日間、2006年に30日間と3度に亘る命がけのハンガーストライキを決行しなければ、今回解放されることはなかったと思います。
また、こうしたハンガーストライキをしたとしても、普通の食事さえ出してくれていたならば、2006年のハンガーストライキが終わってから1年11ヶ月も経つ現在、体重が元に戻らないなどということはあり得ません。
最後に
自由民主主義の認められている日本にあって、信仰を棄教させるために12年5ヶ月間もの長期に亘って監禁し、集団で非難を浴びせ、精神的・肉体的に虐待して苦痛を与え、脱会を強要するこのような行いは、拷問以外の何ものでもなく、絶対に許すことができません。一体私がどのような罪を犯したために、12年5ヶ月もの期間、留置されなければならなかったのでしょうか?
兄や兄嫁は、元々自由意志で信仰心に燃えて統一教会の信仰をしていたにも拘わらず、脱会した後になって、意に反して伝道され活動に従事させられたなどと嘘の主張をして、「青春を返せ裁判」を起こし、統一教会から賠償金を得ています。
それに比べ、私は31歳から44歳までの12年5ヶ月間、狭いマンションの一室に拘束され続け、信教の自由、結婚の自由、職業選択の自由、居住移転の自由、投票の自由を奪われたことは元より、人間の尊厳を根底から否定し尽くされ、貴重な人生を台無しにさせられました。
しかも、監禁中は人間性を無視した非難、罵倒、中傷と、監禁を継続するための暴行傷害、そして食事制裁による拷問を受け棄教を強要され続けました。しかも健康診断などが受けられなかったことは元より、40度近い高熱が出ても病院にすら行くことを許されず、餓死寸前になっても解放されませんでした。このような犯罪は前代未聞です。
ところが、監禁に関与してきた家族や宮村等には一切の反省もなく、それどころか、宮村は荻窪フラワーホームの玄関ドアが南京錠などで施錠されていたことを知らなかったなどと言って責任逃れをする構えを見せているのです。
私が12年5ヶ月にも亘る監禁と精神的・肉体的虐待にも拘わらず統一教会の信仰を失わなかった理由の一つは、監禁している側の残虐な行いを目の当たりにすればする程、統一教会に反対している宮村や家族等こそが悪の権化であって、自分は死んでもあのような悪の一味には属したくないという思いを強く抱いたことと、不当な監禁現場からいつの日か必ず自由の身となって、この悪質な人権侵害を万人に訴えていかなければならないという使命感を強く持ったためです。
巣鴨警察署長を始め司法関係者各位におかれましては、どうか、本件監禁に関与した全員を厳罰に処して頂き、自由と人権が認められる現代国家にあっては、このような残虐な行為は絶対にしてはならないのだということを、満天下にはっきりと示して頂きたいと、心より念願するものです。
以 上
○後藤徹12年5ヵ月監禁事件・告訴状
<1. 事件関係者の表示・告訴の趣旨・告訴事実等> 告訴状
告 訴 状
平成20年4月 日
巣鴨警察署長 殿
告訴人代理人弁護士 福 本 修 也
逮捕監禁致傷,強要未遂告訴事件
事件関係者の表示
〒170-0004 東京都豊島区北大塚○○
告訴人 後藤 徹
〒102-0083 東京都千代田区麹町○○
福本総合法律事務所(連絡場所)
告訴人代理人弁護士 福 本 修 也
電話03-5212-2223 FAX03-5212-2224
〒○○ ○○○○○○○○
被告訴人 後藤○○
住所不詳
被告訴人 後藤○○
住所不詳
被告訴人 後藤○○
住所不詳
被告訴人 後藤○○
〒○○ 新潟県新津市山谷町3-2-8
被告訴人 松永堡智
〒○○ 東京都杉並区荻窪○○
被告訴人 宮村 峻
記
第1 告訴の趣旨
被告訴人らの下記所為は,刑法第220条及び第221条逮捕監禁致傷罪並びに同法第223条第1項及び第3項強要未遂罪に該当するものと思料されますので,被告訴人らを取り調べの上厳重に処罰することを求めます。
第2 告訴事実等
1 告訴事実
被告訴人らは,告訴人がかねてから世界基督教統一神霊協会(以下,「統一教会」という。)の信者として,その信仰を有していたことから,告訴人を逮捕・監禁した上,棄教を強要しようと企て,共謀の上,平成7年9月11日ころ,東京都西東京市○○後藤○○方において,後藤○○(平成9年6月22日死亡),被告訴人後藤○○,同後藤○○ほか数名が,告訴人の両脇を抱えて身動きを封じ,もって告訴人を不法に逮捕し,さらに,告訴人を同所屋外に連行し,予め用意してあった停車中のワゴン車内に乗せ,告訴人を被告訴人後藤○○ら5,6名で取り囲んでその脱出を不能にし,同月12日ころ,告訴人を新潟県内某所所在のマンションの一室内に連行した上,同室玄関ドアを内側から厳重に封鎖し,同日から平成9年12月末ころまでの間,被告訴人ら数人が告訴人を常時監視するなどしてその脱出を不能にし,更に同年12月末ころから平成20年2月10日までの間,東京都杉並区荻窪3-47-15所在の「荻窪フラワーマンション」804号室に上記同様の方法で告訴人の脱出を不能にし,もって告訴人を不法に監禁し,「全身筋力低下,廃用性筋萎縮(特に両下肢),栄養失調,貧血」の傷害を与えた上,その間,上記各マンションの一室において,被告訴人松永堡智,同宮村峻らにおいて,監禁中の告訴人に対し,こもごも,「統一教会の信仰を棄教しなければ,監禁を解かない」旨申し向け,これに応じなければ告訴人の身体の自由に対し将来にわたって引き続き危害を加えることを告知して脅迫し,告訴人をして義務なきことを行わしめようとしたが,告訴人が棄教を拒否したためその目的を遂げなかったものである。
2 罪名及び罰条
逮捕監禁致傷,強要未遂 刑法第220条,第221条,
第223条第1項,第3項
1 告訴人及び被告訴人らの身上経歴等
(1) 告訴人の身上経歴等
ア 告訴人は昭和38年11月2日,山形県米沢市にて父後藤○○(昭和6年11月25日生まれ,平成9年6月22日死去),母被告訴人後藤○○(昭和7年12月10日生まれ。)の間に次男として出生し,昭和58年4月,日本大学理工学部建築学科に入学し,昭和62年3月,同大学を卒業した。
兄弟としては,兄の被告訴人後藤○○(昭和35年3月28日生まれ。)及び妹の被告訴人後藤○○(昭和42年2月14日生まれ。)がいる。
イ 告訴人は,昭和61年8月ころ,被告訴人後藤○○から伝道され,世界基督教統一神霊協会(以下,「統一教会」と言う)に入会し,昭和62年3月,大学を卒業して,同年4月より大成建設株式会社に入社した。
(2) 被告訴人らの身上経歴等
ア 被告訴人後藤○○及び同後藤○○は,かつて統一教会の信者であったが,被告訴人宮村峻らに拉致監禁されて棄教した。被告訴人後藤○○は,元統一教会信者であったが,離教後,被告訴人後藤○○と結婚したものである。
イ 被告訴人松永堡智は,日本同盟基督教団「新津福音キリスト教会」牧師を務めるものであるが,統一教会信者の父兄の依頼を受けて統一教会信者を拉致監禁し,強制棄教を迫る活動を行っている「拉致監禁牧師」である。
ウ 被告訴人宮村峻は,株式会社タップと称する広告代理店を経営しており,荻窪にある日本イエスキリスト教団荻窪栄光教会の森山諭牧師(故人)らと組んで,同教会を拠点に複数の統一教会信者の父兄から,その子供である信者を脱会させる依頼を受け,父兄等に順番待ちをさせ,順番が来るまでの間,拉致監禁による脱会説得の手法を父兄らに指導しているものである。
被告訴人宮村が組織していた被告訴人後藤○○らの会を「水茎会」と言い,「水茎会」では,順番が回ってきた父兄は,既に信者の脱会に成功した被告訴人後藤○○らの協力を得て自分の子を拉致監禁し,荻窪栄光教会の牧師館,ないし,近隣のマンションの一室に監禁するというシステムができており,そこに被告訴人宮村が来訪するなどして脱会説得が行われる。
なお,被告訴人後藤○○は,統一教会を脱会後,被告訴人宮村が行う統一教会信者に対する脱会説得活動を手助けするようになり,更に前記株式会社タップに就職して,被告訴人宮村の下で鞄持ちとして働くようになったものである。
2 第1回目の監禁
告訴人は,昭和62年10月,しばらく音信不通となっていた被告訴人後藤○○から「教会のことで話をしたい」と言われて新宿に呼び出された。被告訴人後藤○○に言われるまま京王プラザホテルの一室に入ると,部屋の中には既に両親(故後藤○○及び被告訴人後藤○○)が待機しており,告訴人は被告訴人後藤○○等から脱会説得を受けた。
気がつくと,部屋の入り口のドアは何らかの細工により中から開かないように固定され,部屋から出られない状態になっていた。告訴人は一方的に監禁されたことに憤慨して「出せ!」と叫んだところ,両親及び被告訴人後藤○○と取っ組み合いになったが,取り押さえられた。その後,被告訴人宮村峻が元統一教会信者を数人連れて同室に来るようになり,脱会説得を受け,棄教を強要された。
約3日後,告訴人は「信仰を持ったままでは部屋から出られない」と判断し,意に反して脱会した振りをしたところ(偽装脱会),約1週間後,京王プラザホテルから杉並区荻窪のマンションの一室に連れて行かれ,同室にて1ヶ月弱監禁された。
告訴人は常に両親及び被告訴人後藤○○によって監視される中,同室から前記荻窪栄光教会の礼拝等の集会に参加させられ,同教会の牧師館や近隣のマンションの一室で監禁されている統一教会信者の脱会説得に同席させられた。荻窪栄光教会の集会には,被告訴人宮村や森山によって脱会させられた元統一教会信者等が多数来ていたが,その中の一部は,被告訴人後藤○○のように被告訴人宮村らの脱会説得活動に積極的に荷担していた。
また,告訴人は,同教会のほぼ向かいにある一軒家で水茎会の集会が開催された際,これに参加させられ,被告訴人宮村が被告訴人後藤○○らを指導している場面を目撃している。
監禁・監視されている間,告訴人は会社にも連絡を取ることは許されず,欠勤を強いられた。
11月下旬頃,告訴人は,荻窪栄光教会の日曜礼拝に参加させられた際,トイレに行く振りをして教会建物から脱出し,ホーム(統一教会信者が運営する寮)に逃げ帰った。
3 第1回目の監禁から脱出後の経緯
告訴人は,ホームに帰ってから後は,職場に戻ると再度家族等から拉致されるかも知れないという恐怖心があったため,戻ることができず,大成建設を退社するを余儀なくされた。その後は,信徒組織において献身的に伝道活動や教育活動に従事するようになった。
昭和63年末頃には,妹の被告訴人後藤○○が両親,及び被告訴人後藤○○等によって拉致され,脱会した。
被告訴人後藤○○は,脱会後,被告訴人宮村が行う統一教会に対する反対活動に加わるようになり,平成3年には東京地裁に統一教会を被告とする損害賠償請求訴訟(いわゆる「青春を返せ裁判」)を提起している。
平成4年8月,告訴人は,○○と共に韓国ソウルで行われた3万双の国際合同結婚式に参加したが,日本に帰国後,同女は家族らによって脱会説得を受けて信仰を失ったため,同女と結婚生活を開始することはできなかった。
平成5年頃,被告訴人後藤○○は○○(以下,「被告訴人後藤○○」と言う)と結婚した。被告訴人後藤○○も,親族に拉致監禁され,宮村,及び松永堡智(日本同盟基督教団新津福音キリスト教会牧師)らから脱会説得を受けて統一教会を脱会した元統一教会信者で,脱会後は統一教会に対する反対活動を行うようになり,平成3年に新潟地裁で「青春を返せ裁判」を提起しているものである。
平成7年8月,告訴人は○○と共に韓国ソウルで行われた36万双の国際合同結婚式に参加したが,同年9月に告訴人が後記の通り2回目の拉致監禁の被害に遭ったため,同女と結婚生活を始めることはできなかった。
4 第2回目の監禁(本件)
(1) 新潟のマンションでの監禁
告訴人は,平成7年9月11日夜,東京都西東京市の自宅に帰宅して滞在中,両親,被告訴人後藤○○及び庭に潜んでいた見知らぬ男性らによって四方八方を囲まれ,左右両脇を抱えられ抵抗できない状態にされ,家の中から引きずり出され,ワゴン車に監禁された。なお,庭に潜んでいた男性は,被告訴人宮村が経営する株式会社タップの従業員であった。
ワゴン車には家族及び見知らぬ者達が乗り込んで告訴人を取り囲み,見知らぬ男性が運転し,告訴人は,彼らによってワゴン車に監禁されたまま新潟に連行された。
新潟のマンションの部屋は,窓が全てストッパーで固定され開かないようにされ,玄関は内側から施錠できる玄関で,告訴人が部屋に入れられた後に施錠された。同室では両親,被告訴人後藤○○,被告訴人後藤○○が監禁場所に常駐して告訴人を監視し,棄教を強要した。
告訴人が同室で監禁されていた最中,被告訴人後藤○○は東京で働いていたため,時々顔を見せる程度であったが,来る度に告訴人に棄教を強要した。特に,告訴人を監禁して間もない頃に被告訴人後藤○○は告訴人に対して,「言っておくが,この問題は絶対に許さんからな。この問題を解決するまでは絶対に妥協しないし,この環境もこのままだ。我々はどんな犠牲を払っても決着をつける。お前もそれは,覚悟しておけ」と言って,告訴人が完全に棄教するまで絶対に監禁から解放しない旨述べて,告訴人に棄教を強要した。
また,同室には被告訴人松永らが来て告訴人に対し脱会説得を行い,棄教を強要した。
平成7年12月末,告訴人は,このままでは監禁状態から解放されることは不可能であると判断し,意に反して脱会した振りをし,意に反して脱会届を書いたが,先の1回目の監禁時,告訴人が偽装脱会をしていたため,信用されず,告訴人が脱会を表明した後も,被告訴人らは告訴人の監禁を継続した。
(2) 東京のマンション(1カ所目)での監禁
平成9年6月22日,父後藤○○が癌で死去し,父の死後間もなく,告訴人は東京に移送され,マンションの3階か4階の一室に監禁された。同室の玄関ドアは内側から特殊な鍵がかけられており,脱出は不能であった。
(3) 東京のマンション(2カ所目)での監禁
告訴人は,平成9年12月末頃,被告訴人後藤○○,同後藤○○,同後藤○○,同後藤○○及び多くの氏名不詳の男によって再度ワゴン車に監禁され,「荻窪フラワーホーム」という名称のマンション(杉並区荻窪3-47-15)に連行され,同マンションの804号室に監禁された。
同室で告訴人は一番奥のベランダに面した部屋に連れて行かれ,普段はそこに居るように言われた。告訴人は同室到着後間もなく,玄関から出ることが可能かどうか確認しようとして,玄関が見える位置まで行ってみた。すると,玄関は内側からクサリと南京錠で開かないようにされ,窓は全て施錠できるタイプのクレセント錠が取り付けられており,専用の鍵によって施錠されていた。同室においては,被告訴人後藤○○,同後藤○○,同後藤○○,同後藤○○が,告訴人が逃げないように監視し続けた。
告訴人が脱会の意思表明をしてから2年を過ぎたにもかかわらず,一向に監禁から解放されず,膠着状態が続く中,告訴人はいつまでも信仰を失った振りをし続けることに我慢ができなくなり,804号室に監禁されてより間もなく,信仰を失っていないことを家族等に対して表明した。
告訴人が偽装脱会していた事実を表明した結果,告訴人は同室にて,家族や後日同室に来訪した被告訴人宮村等からあらゆる非難,中傷,罵倒を受けることとなり,徹底的な棄教強要を受けるようになった。
(4) 被告訴人宮村等による脱会説得
平成10年1月初旬から同年9月頃にかけて,被告訴人宮村峻が元信者等を引き連れて804号室に来訪し,棄教強要を行うようになった。被告訴人宮村等が同室に滞在する時間帯は午後6時頃から午後8時頃までで,当初,被告訴人宮村は毎日来訪し,同行した元信者は,○○(女),○○(女),被告訴人宮村の会社の従業員(男),○○夫婦,○○(男),○○(男),○○(女)といった者達であった。被告訴人宮村の会社の従業員(男)は,告訴人が平成7年9月11日に自宅から新潟に連行された際,自宅の庭に潜んでいて,告訴人に対する逮捕監禁に加担した人物である。
被告訴人宮村,及び高杉を始めとする元信者等は,同室に来訪する度,あらゆる非難,中傷,罵倒を告訴人に浴びせかけた。
告訴人は被告訴人宮村等に対し,「ここから出せ!」「あんたら,統一教会は人権侵害をしていると言うが,統一教会は人を監禁したりしないぞ!あんたらの方が人権侵害をしているじゃないか!」「信教の自由を何だと思っているんだ!」と言って激しく抗議したが,被告訴人宮村は,「えらそうなことを言うな。お前に人権を主張する資格などない」「俺はお前を監禁なんかしてない。家族が保護しているんだ。出して貰いたければ家族に言え」「お前は全然人の話を聞いていない」「頭を使え。自分の頭で良く考えろ」「自分の頭で考えられるようになるまではここから出られないぞ」「もし自分の子供が統一教会を辞めなければ,家に座敷牢を作って死ぬまで閉じこめておく」などと述べて告訴人に棄教を強要した。
被告訴人宮村は,告訴人が頑として棄教しないため,徐々に同室に来る回数が減っていき,平成10年9月を過ぎるとしばらく来なくなり,元信者だけが同室に来るようになった。
(5) ハンガーストライキの決行
告訴人は,平成16年4月,このままでは一生監禁されたままで終わるのではないかとの恐怖心に襲われたが,平成13年2月にはどんなに告訴人が脱出しようとしても取り押さえられた経緯があったことから,遂に告訴人は21日間のハンガーストライキを決行し,長期監禁に抗議した。
平成17年4月,長期監禁に抗議して再度ハンガーストライキを21日間決行した。
被告訴人らは,ハンガーストライキが終わっても粗末な食事しか出さず,食事制裁によって告訴人を虐待し,棄教を強要した。告訴人が被告訴人後藤○○に,「1回目のときは1ヶ月で普通食に戻したのに今回は何でこんなに長いのか?兵糧攻めか?制裁のつもりか?」と言って抗議し,「いつ普通食に戻すんだ?」と聞くと,被告訴人後藤○○は「それは分からない」と言ってとぼけ,結局,粗末な食事しか出さないことによる虐待は7ヶ月間続いた。
平成18年4月,告訴人は,今度は以前にもまして長期のハンガーストライキを決行しない限り監禁から解放されることはないと思い,3回目のハンガーストライキを30日間決行した。
これら告訴人の度重なるハンガーストライキによる抗議も空しく,被告訴人らは,監禁を解こうとせず,告訴人に粗末な食事しか与えないようになり,告訴人の体重は激減し,運動不足もあって体力は著しく低下した。
(6) 監禁からの解放
平成20年2月10日午後4時頃,被告訴人後藤○○,同後藤○○,同後藤○○,同後藤○○の4人が告訴人に対して「統一教会の間違いを検証する気がないんだったら即刻出て行け!」と言って804号室からの退去をいきなり命令してきた。
告訴人は著しく衰弱しており,財布など所持品は返して貰えず,また着替えもない状態で生活の宛てもなかったことから,「12年間も監禁しておいて無一文で追い出すなんて酷いじゃないか!」と言って激しく抗議したところ,揉み合いになり,被告訴人らは力づくで告訴人を追い出した。
告訴人は,自由の身になれたとはいうものの,体力的に著しく衰弱した中,所持品も着替えもなく,12年間というブランクの中,仕事も生活のあてもなく,かつての知り合いがどこにいるかも分からない中で,一体これからどうやって生きていったらいいのかという不安が襲い,渋谷の統一教会本部教会以外,荻窪近辺の統一教会の場所が分からなかったため,告訴人は歩いて本部教会に向かった。
マンションを出て4時間くらいかけて漸く渋谷区松濤2丁目の交差点まで来たが,遂に膝の激痛のため一歩も歩けなくなり,通行人に統一教会本部への道順を尋ねたところ,2人目に声を掛けた通行人がたまたま帰宅途中の統一教会信者であったため,道順を教えて貰い,「歩いても行ける距離」とのことだったが,もはや歩行困難であったため,タクシーを拾って貰い,タクシー代として千円を出して貰って何とか本部教会に辿り着き保護された。
第4 参考事項
本件は,12年間という想像を絶する拉致監禁事件であり,極めて重大であるが,中でも,被告訴人松永及び同被告訴人宮村は,これまで多数の統一教会員を監禁してきた経歴を持つ拉致監禁の常習者であるところ,営利の目的をもって,統一教会信者に対する拉致監禁,棄教強要行為を継続し,本件告訴事実記載の犯行に及んだものであり,その犯情は極めて悪質である。
警察及び検察庁におかれては,警察庁長官の国会答弁の趣旨(第147回国会衆議院決算行政監視委員会議事録)に従って,被告訴人松永,同被告訴人宮村らをはじめ本件被告訴人らを厳重に処罰することを求めるものである。
添 付 書 類
後藤徹陳述書等関係証拠資料一式
告訴委任状 1通
2010年6月23日、当会副代表の後藤徹氏が検察審査会に不服申し立て
2010年10月20日 後藤副代表、検察審査会「不起訴相当」に対するコメント
[...] されました。 ※ 書類送検とは、 「犯罪容疑者の身柄を拘束することなく、事件に関する調書 ( 取り調べた書類 ) だけを検察庁に送ること」 ・12年間監禁された後藤徹氏の証言 [...]
[...] 後藤徹12年5か月拉致監禁事件 [...]