今利智也さん・理絵さん夫妻の裁判闘争
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1.今利智也さんの陳述書
1.私は、昭和44年12月1日生れ27歳です。千葉県市川市○○ ○-○-○○ ○○○○ ○の○○○号に平成元年4月から住んでいます。職業は現在求職中です。
神奈川県藤沢市善行小学校卒、同善行中学校卒、神奈川県立七里が浜高校卒、平成4年3月、日本大学法学部政治経済学科を卒業しました。この大学在学中の平成2年5月、世界基督教統一神霊協会、通称「統一教会」に出会い、信仰を持つようになりました。
私の妻である今利理絵(旧姓高塚)は、昭和45年5月11日生の26歳です。妻は、文化女子大学に在学中の同じく平成2年12月に私とは別の場所で教会に出会い、信仰を持つようになりました。
初めにこのようなことを述べるのは、今回の事件は、私や妻がこの統一教会の信仰を持つに至り、それに反対する人たちによって起されたと思われるからです。
2.統一教会では約3年に1回世界文化体育大典の中で、国際合同祝福結婚式を挙行するにあたってそれへの参加の希望を募ります。そして祝福結婚を希望する人には、それぞれに、結婚相手を推薦されることになっています。それで自分が最終的に納得したら、祝福式に参加するのです。
私も平成7年8月に開催された第2回世界文化体育大典の一環として行われた36万組の国際合同祝福結婚式への参加を希望し、同年の7月頃、教会に願書を提出しました。そして同年8月20日頃、相手の方が推薦され、電話で話をしました。それが現在の妻だったのです。妻も私と同じように祝福希望の願書を同年の夏前頃に既に提出しており、相手が推薦されるのを待っていたところでした。
2人はその場所で意気投合し、会うことを待ち遠しく思いながら同年8月22日頃、それぞれ別々の飛行機で渡韓し、その日の内に、臨時に設けられていた入国センターにおいて、生涯忘れることのできない出会いをしました。そして2人とも喜びのうちに同年8月25日、ソウルにあるオリンピックスタジアムにおいて、祝福結婚式に参加し、神様の前で永遠に夫婦であることを涙を流し合いながら互いに誓いました。
同年8月27日頃、別々の飛行機で2人とも帰国し、私は、千葉県市川市の自分のアパートに、妻は当時住んでいた実家、ここには妻の両親、妹の○○さんも同居していましたのですが、そちらの方へ帰宅しました。この妻の実家の住所及び電話番号は次の通りです。
住 所 ○○市○○区○○○○○ ○-○-○○○
電 話 ○○○-○○○-○○○
日本に帰国してからは、電話で話をしたり、土、日曜日を利用して、会ったりしていました。統一教会では、未婚で祝福に参加したカップルには、だいたい3年ぐらいの聖別生活をしなさいと指導されます。これは、だいたいのカップルが出会ってから間もなく祝福結婚式に参加するので、まだお互いに良く知りもしないで家庭を持つよりも、3年ぐらいお付き合いをして、良く理解し合ってから家庭生活を始めた方がより良いからです。また、個人においても、この3年間に更に自分自身を高め、将来立派な家庭生活を築く為の人格形成の期間であると私は思っています。
このようなことから、結婚式は済まされたけれども、世間一般の見方からすると、この時期の私たちは、お互いに将来を誓い合った、許婚同士、そして、これからお付き合いを始める恋人同士の様なものでした。
幸せに満たされていた2人でしたが反面気がかりなことが既にこの頃からありました。それは、妻の実家の両親が、あまり、統一教会を快く思っていないどころか、何とか、脱会させようとしているらしい気配があったことです。世間には統一教会を邪教と決めつけ、根も葉もない虚偽の事実を吹聴し、子供やその他、肉親が統一教会に入会している家族の方々の不安を煽り、金銭を取得し、教会員をその親族に指示して拉致させ監禁し脱会させることを生業としている人間がいるということは知っていましたが、妻の両親がこれらの人間につながっている確証もないまま時が過ぎました。
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3.それは、突然の出来事でした。同年10月下旬のある日の午前4時過ぎ頃、妻から、私に、電話で連絡が入り、「やられた。やられたよぉ」と小声で言ってきました。私は眠っていたので頭が良く働かず必死にその言葉の意味を考えようとしました。すると妻が小声で更に次のような事を述べました。
① 妻が、昨夜12時頃、ある男に指示された妻の両親と、「佐藤」と名乗る数名の見知らぬ男たちによって、力づくで実家から連れ出されて車に連れ込まれて拉致されたということ。
② 妻を拉致して乗せた車は横浜市青葉区つつじが丘の妻の実家から、国道246号を通り、関越自動車道に入って、花園インターを降り、利根川を渡ったということ。
③ その車は、ずいぶんとグルグルと走り回った後、目的地らしい場所に着くと、妻は車から降ろされ、待ち構えていた十数人の男女(皆、若者とのこと)に周りを取り囲まれ、見知らぬマンションへ連れ込まれ、エレベーターに乗せられ10階のある部屋に監禁されたということ。
④ 妻はそのマンションの部屋に監禁されていて、今、シャワールームから、密かに助けを求めるためこの電話をしているということ(背後でシャワーの音)。
妻は、以上の内容を私に伝えた後、誰かに見つかったらしく、電話が切れました。この日から約5日に渡って、妻との音信が途絶えました。
4.それからまた妻から、私に電話がかかり、奇跡的に脱出に成功したから助けに来て欲しいとのことであったので、場所を決め、東京都のJR浜松町駅で妻と会うことができたのです。私と妻は話し合い、妻が東京にいると危ないと思い、私の良き相談役でもあったご夫婦がいる東北へ妻と共に行き、そのご家庭に3日間お世話になったのです。この方の氏名、住所は、必要があれば、後日提出することが可能です。
5 ここで、この平成7年10月下旬におきた拉致、監禁に関して、私が妻から聴いた話を覚えている範囲で述べたいと思います。それは要約してまとめると次のようなことです。
① 夜、妻が実家に帰ると、突然両親が、「お前の教会のいい話をどうしてもおばあちゃん聞きたいといって近くのインターチェンジまで来ているから今から一緒に来なさい」と言って、夜中だというのに妻を連れ出そうとしました。妻が抵抗すると、今度はお父さんに腰の辺りを抱き抱えられ、力づくで、家の外に連れ出されてしまったのです。引きずられるようにして4階から降ろされ下で待っていた見知らぬ車(ミニバンタイプ)に乗せられそうになったのです。妻は激しく抵抗し、大声を上げて助けを求めました。このとき少し離れた場所から、妻の両親に指示を出していた中年の男性が居ました。他にも、数名の見知らぬ男達がいて、皆一様に自分は「佐藤だ」と言っていました。結局、無理矢理、その車に乗せられてしまったのです。ドライバーの男も見知らぬ人間で、これも「佐藤だ」と名乗りました。車は、関越自動車道を通り、花園インターで降り、利根川を渡りました。
② 後日わかったことですが、連れて行かれたのは、群馬県太田市でありました。最初のマンションでは、十数人の若い男女に囲まれて強制的にエレベーターに乗せられ、10階のある一室に監禁されたのです。そこには親戚のおばさんや、おじさんが来ていて、24時間、妻を監視し、監禁しました。
③ しばらくして、マンションを移されました。これは、私や同じ信仰を持つ妻の友人達が妻を心配して捜し、発見されるのを恐れたためで、この拉致監禁の主犯格の男が指示したものと思われます。次に監禁されたのも太田市内のマンションの2階でした。この部屋もまるで牢獄のごとく、内側から、ドアや小窓が開けられないよう、南京錠などで強固に施錠された部屋だったそうです。その時、部屋には、妻のお父さんを中心として、その他若い男女数人が交替でつねに24時間妻を監視していたのです。妻は完全に監禁されていたのです。
④ 拉致されて約5日目、ある奇跡が起きました。それは、妻が、偶然、枕についていた安全ピンを使って、何とか、窓の内側に頑丈に貼り付けられていた外付け用の鍵が開かないものかと鍵穴にピン先を入れて、動かしていた所、本当に奇跡的にも鍵が開いたのです。
しかし、その監禁部屋は狭く、窓を開けたらその音ですぐに見つかってしまうので、妻は機会を待ちました。妻がこっそり部屋に健康サンダルを持ち込み、逃げる準備をしていると、何と、お父さんが冷蔵庫の霜取りを始めたのだそうです。お父さんが「ガリガリガリ」とものすごい音を立てて、作業をしていました。妻は、「今しかない!神様お守りください」と言う思いで窓を開け、外に出たのです。ドキドキしながら恐怖感を乗り越えて2階の部屋から、排水管らしきものに抱きついて下に降りようとしました途中まで降りたとき、その排水管が突然内側へ曲がっていたので、その地点からストンと地面にお尻から落ちる格好で落下してしまったのです。この時、駐車場に止まってエンジンをかけていた車の中にいたおじさんに目撃されました。
妻は、一目散に裸足のまま走り出しました。健康サンダルは鞄の中に入れてあったのですがそれを履くと早く走れず、捕まってしまう恐れがあったので、とにかく、夢中で、何度も角を曲がりながら裏通りを逃げたのです。すると近くに紳士服のコナカがあったので、サンダルを履いて、店に入り、店員に観光客を装って、タクシーを呼んでもらいました。
どうして観光客を装ったのかというと、変に怪しまれないようにするためと、店の人にこの辺の地理の様子を聞くためでした。その結果ここが群馬県太田市であるということがわりました。そのうちにタクシーが来たので、これもまた、観光客の様なふりをして、電車の駅を何か所か聞き出し、一番近いのは、太田駅辺りでしたがそんなところへ行けば見つけられてしまうと思い、わざとタクシーで距離をかせいで、名前ははっきりしませんが、小さなある鉄道の駅でタクシーを降りたそうです。
妻は、そこから、電車に乗り、どうにか埼玉県まで来たところで、私に電話をし、助けを求めたのです。それから、妻は、靴屋でスニーカーを買い、それに履きかえて、東京のJR浜松町駅で私に会うことができたのです。
ちなみに、妻は、拉致監禁中に財布を奪われていたので、お金がありませんでしたが、こういうときもあるかと思い、いつも腰にまいていたベルトの中に1万円札を隠しておいたので、そのお金で逃げてくることができました。
以上が平成7年10月下旬に発生した拉致、監禁についての大まかな概要です。
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6.東北から帰京した後、妻は、私の実家で約3か月の間暮らしました。妻は、拉致監禁から着のみ着のままの状態で逃げて来ていたので、下着から何から、すべての生活必需品を買い揃えなければならず、私の実家の母がずいぶんと助けてくれました。
妻と私は話し合った末、法律上も正式に婚姻することにし、平成7年11月6日、入籍し、正式な夫婦となりました。妻は、二度とあのような恐ろしい拉致監禁はされたくないと強く思っており、私と正式な夫婦となることによって妻の両親にも認めてもらうことが出来るであろうし、仮に再び拉致監禁されるような状態になれば、夫である私が妻を救い、拉致監禁の関係者を訴えることができるという決意でした。
そして年が明け、平成8年3月頃、私たちは、妻の為に市川市内にアパートを借り、妻は、新しく勤め先を決めて、2人で新しい生活を始めたのです。
住居は別々でしたが、食事を一緒にしたり、買い物を一緒に行ったり、生活費は共同で捻出していましたので、普通の夫婦となんら変わりは、ありません。
前述の拉致監禁が繰り返されることを恐れて、妻の親戚や両親には、妻の住居は教えず、妻の携帯番号と私のアパートの住所だけを教え、郵便物等の受け取りは、私のアパートを窓口として、使っていました。しかし、妻の両親からは、ほとんど連絡はありませんでした。こちらから連絡しても、すぐに切られてしまうといった有様でした。親子の話合いをするために拉致監禁した筈なのに、おかしなものです。
そのような状況が1年以上も続いたのです。
7.それでは、今回、私が、警察に既に被害届を出している、私の妻に対する逮捕監禁と私に対する傷害事件について述べたいと思います。
8.平成9年1月10日午後7時半頃、私は、東急田園都市線あざみ野駅へ私の妻を車の助手席に乗せて、妻の妹である高塚○○さんと会うために行きました。
それは、去年の12月上旬頃、私の誕生日のお祝いに○○さんからプレゼントをもらい食事を御馳走されたことがあったので、今度は私がそのお返しに次女の1月6日の誕生日のお祝いとして、4日遅れの1月10日に日付を決め、場所は、○○さんの実家に近いことから宮前区にあるデニーズにしようと思い、とりあえず、電車で来る○○さんと待ち合わせするために、あざみの駅を選んだのです。
そこへ、私と妻が、同日午後7時半頃に着いた時には、○○さんはすでに来ていました。同日午後8時頃川崎市宮前区菅生5-23-30にあるレストランデニーズ川崎市菅生店へ行きました。
この店は、以前仕事の途中で行ったことともあったので、すでに知っている店でした。尚、住所は警察で地図を調べてもらいわかったものです。
9.3人で、食事をしたり、話したりして、2時間以上デニーズにいました。
同日午後10時半過ぎ頃、妻に私の財布を渡し精算をさせ、支払が終わるのを見届けてから、先に私が店を出ました。妻と○○さんが5~6メートル後を歩くような感じで、デニーズ北側駐車場に停めてあった私所有の車へ向かい、先に私が車に辿り着きました。そして、運転席のドアを開け、乗り込んで、エンジンをかけました。その時、「キャー」という妻の叫び声が聞こえたので、瞬時に顔を上げると、妻が4~5人の人に両手、両足をつかまれ羽交締めにされ連れ去られようとしているのが見えたのです。
私は慌てて、気が動転しましたが、妻が暴漢に襲われかけているのがわかりましたので、すぐに車から降りて、助けに走りました。
10.妻まであと少しという所で、私は、2~3人の男に体当たりされるようにして、左右の腕から肩辺りをつかまれ、前方へ力ずくで押し倒されました。私は 両膝をついて、地面に組み伏せられてしまったのです。
この時妻は、右の暴漢グループらしき、4~5人の人達に、両肩・腕あたりと両足を羽交締めにされたり、つかまれたりして体を宙に上げられ、近くに止めてあったワンボックスカーの車内へ横のスライドドアから、連れ込まれようとしていたのです。
「ともやさーん!!ともやさーん!!」と必死で私の名前を叫びながら抵抗し、私に助けを求める妻を私は、何とか助けようと、私自身、2人くらいの男に、組み伏せられた状態から、懸命に「理絵さーん!!、理絵さーん!!」と妻の名を叫びながら辛うじて、前へ進むようにして、左手を伸ばすと、妻の体に届いたので、妻が着ていたセーターと強く握り締め、何とか、妻を助けようとしました。
妻を襲った4~5人と私を襲った2人あるいは、3人は、二手に分かれて、互いに名前を叫び合い必死で抵抗する私たち夫婦を、暴力的力をもって引き離そうとし、ついに、私の左手は、妻のセーターから離れ、私は、2人の男に私の両手両肩を左右から捕まれて組み伏せられたまま、妻が先述のグレーっぽいワンボックスカーの、横のスライドドアから車内へ連れ込まれるのを見ていました。私は、あらん限りの大声を出して、「理絵さーん!!理絵さーん!!理絵さーん!!」と妻の名前を叫ぶことしかできませんでした。この時、妹の○○さんが「お兄さんごめんなさい」と言っている声が聞こえ、○○さんもこの拉致監禁に加担していて、計画的だったとわかりました。また、○○さんが関係している以上、妻の両親らが平成7年10月下旬ころの事件と同じように他の人間たちと一緒に計画して行ったものだと思いました。
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11.妻を拉致した車が走り去った後、私を組み伏せた男たちの2人が残っていました。
私は、先に述べたように、この2人に力ずくで、押し倒され、膝をついた時に、激しく、アスファルトの地面で両膝をこすり、この時、左手も、地面に打ちつけられて、各所から血が流れていました。その傷については、既に医師の診断書を警察へ提出しています。また写真にも撮ってもらっています。
12.ここで、私に暴行し傷害を負わせた男2名ないし3人について、甲、乙、丙と呼んで、覚えている範囲で述べたいと思います。私は、視力が両眼とも0.1以下なのですが、男たちに組み倒された時に、眼鏡がはずれたか、はずされたかは、よく分かりませんが、とにかく、視力を奪われた状態でしたので、次に述べるようなことぐらいしかわかりませんでした。
甲について
年 齢 30~40代くらい 身 長 170センチメートル
体 格 普通 髪は普通の長さ
柄のセーター 色不明のズボン
乙について
年 齢 40~50代くらい 身 長 160~170センチメートル
体 格 やや小太り 髪は普通の長さ
眼鏡使用
丙については、居たかどうかは、曖昧で、何も覚えていません。
尚、妻を連れ去った人達は、妻を車内に連れ込むと一緒に車に乗り込んで走り去ってしまったので、覚えていません。また、次女も目撃はしませんでしたが、車が走り去った後には現場にいなかったことから、一緒に車に乗って行ってしまったものと思われます。
13.私は妻が連れ去られた直後、力尽きて、その場に座り込んでしまいました。
この時、乙が私に、「自分の車に戻りな」と言ってきました。
私は乙に対し、「メガネを返して下さい」とだけ言いました。
すると乙は「メガネはさっきの車で持って行ったから無い」と答えました。
私が乙に対し、更に、「これは誘拐だ」と言うと、乙はそれには答えず、甲が自分に言い聞かせるかのように、「親子の問題だ。」と言っていました。私はそれを聞いて、この男らは、平成7年10月下旬ころに起こった妻の拉致監禁事件と同じように、妻の両親らと一緒になって、再び妻の拉致監禁を計画して実行しているのだ、何という卑劣な奴らだと思いました。
私は、また乙に対し、「メガネを返して下さい」と言いましたが、乙は私に、「メガネはさっきの車で持っていったからない」と答え、さらに続けて、「おじさんも近眼だからおじさんのメガネをかけな」と言って、自分がかけているメガネか或いは、別のメガネを持ってきて、私にかけるよう強要するのです。
私は仕方なくそれをかけましたが、度数も合わず見えないので、乙に対し、「見えない」と言って、メガネを返しました。
乙が私に再三に渡って、自分の車に戻れと命令するので、仕方なく、一旦自分の車の所まで行きました。
14.振り返ると、犯人らは逃げたのか、その姿が見えないので、私は、デニーズへ歩いていき、店に入って、店員に警察を呼んで下さいと頼みました。店員が、宮前警察署へ電話をかけてくださり、私が、警察に事情を説明すると、すぐに、警官を向かわせるとのことでしたので、店員の方にお願いして、店内で待たせてもらうことにしました。
15.この時の通報が平成9年1月10日の午後10時45分との警察の記録から逆算して、 妻が車で連れ去られたのは 午後10時42分ころ
私が暴行を受けたのが 午後10時40分ころ
だということが判りました。
16.私が、店内で待っていると間もなく警察官の方が来られたので、パトカーまで一緒に行き、車内で事情の説明をしました。
私は、自分の住所、氏名、電話番号、生年月日等を答えました。それから、妻が複数の人達によって、拉致され車に監禁されて連れ去られたことを告げました。
17.この時、私は、妻が車に連れ込まれたとき、先程述べた次女の声以外に、車内か、女の人の声で、「智也さん、ごめんなさい」と言う声も聞いており、それが、妻の実母の声に似ていたので、警察官に、連れ去った一味の中に、妻のお母さんも居たと言いました。
すると警察官は、「そういうことでしたら、奥さんの件では、こちらとしては、何もできないので、あなたのその傷についての傷害事件としてだけ話を聞きます」と言われ、手、足の傷の確認をされました。
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18. 一通り警察官に事情を話し終わると、警察官が、「自分の車で待っていて下さい」と言うので、自分の車へ行きました。メガネが無いのでよく見えませんでしたが、自分の車に乗り込んで、パトカーの方を見ていると、警察官が誰かと話しているのが見えました。
そのうち、警察官1名が、私のところへやって来て、私の服装や、髪型を調べられました。
この時、1人の男が、私のところへやって来て、無言で、私のメガネと財布を運転席の窓から車内にいた私に押し付けるようにして、置いて、またどこかへ去って行きました。
私は、慌てて、警察官に「この人です」と言いました。
それは、この男が、先程話した犯人の一人の甲に良く似た感じがしたからです。
また私の財布は拉致された妻が持っていたハンドバックの中に入れてもらっていたものであり、またメガネも私が暴行傷害を受けたとき持ち去られていたもので、このような私の財布とメガネを持って来ることができる者は、犯人以外にできないと思われたからです。
しかし、警察官は、「傷害事件として書類を上げておくので、医師の診断書を取って後日、平日の9時から17時までの間で、宮前警察署の刑事課まで来て下さい。」とだけ言って、宮前警察署の電話番号を残して帰って行きました。
後日、宮前警察の刑事課で聞いたところ、この時の男(メガネと財布を私に持って来た)は、警察官の質問には答えず、何処かへ去ってしまったので、氏名・住所も不詳とのことです。
19. 以上が、今回、妻が拉致され、私も傷害を被った事件の流れです。
事件発生以来、妻とは全く連絡が取れません。今、妻が何処でどんな状況におかれているのか心配でなりません。
20. さて、今回の事件を考える時に平成7年10月22日頃に発生した、両親及び、その他、数名の見知らぬ男たちによる拉致・監禁事件の事について、少し述べ、その事件の背後関係を明らかにしてみようと思います。
21. 平成7年10月27日の夜、監禁されていたマンションを脱出し、保護されてから、しばらくが経った時に、妻が田村京子という統一教会の信徒であり、つい最近になって同じように監禁された状態から逃げ出して来たばかりという女性と電話で話をしたことがありました。田村さんと妻は、以前からの信仰の友で親しくしている間柄だったのです。
22. 田村さんの話によると、田村さんも両親や親族によって、拉致され、監禁されたそうです。そして、その拉致・監禁を指導・教唆していた人物が、本人とは何の関係もない、第三者のキリスト教の牧師清水与志雄であり、「クロトリ」という、字はよく分かりませんが、自称カウンセラーという、これもまた、本人とは何の関係もない中年女性であったそうです。
実は田村さんが、この人達の所へ連れて行かれてたとき、次回、監禁(彼らは救出カウンセリングと呼んでいるらしい)する氏名リストの中に私の妻の名前が書いてあったのだそうです。
脱出に成功した田村さんは、真っ先に、私の妻の当時所属していた教会にそのことを通報しました。
残念ながら、この通報は妻の元へは届かずに10月22日頃、ついに、妻は拉致されたのです。
23. この事から、平成7年10月22日頃に発生した拉致・監禁事件は、明らかに、これらの、統一教会に反対し、また、その信者を脱会させることを生業とした、牧師や、カウンセラー等を自称する本人とは、全く関係の無い第三者によって、企てられたものと思われるのです。
24. そして、今回平成9年1月10日に発生した本件事件も、このような、牧師、或いはカウンセラー等によって、統一教会に関する根も葉もない虚偽の事実を吹聴され、娘を思う親の心の利用された妻の両親が、これらの牧師の指示に従って金を払い、これらの者と一緒に実行に移した拉致監禁及び傷害事件であると見ざるを得ないのです。
25. これは、明らかに刑法220条に基づく、逮捕監禁の罪にあたるものです。そして、監禁の目的は、統一教会からの脱会或いは、改宗を迫ることであり、それに付随して、私たち夫婦の婚姻を無きものにしようとすることです。
これらの一連の行為は刑法223条の強要の罪にあたると思います。
それどころか、日本国憲法第20条に保証されるところの信教の自由を侵す行為であり、また第24条1項の「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立」しなければならないのにもかかわらず、私たち2人の法的に正式に夫婦として認められた関係を、妻の身体の自由を拘束し、脅かす行為は、重大な憲法違反であることは、火を見るより明らかなことであります。
26. このように重大な違法行為は、私の妻だけに行われたのではなく、多くの統一教会の信仰を持つ方々が、強制改宗屋又は脱会屋、ならびにそれらに加担するキリスト教の一部牧師たちによって、指導された、両親・兄弟・親戚の人々の手で、拉致され、監禁され、多大な精神的・肉体的苦痛を味わっている現実は、先進国家としての日本国というものを考えるとき、真に憂慮されるべき問題であると考えます。
「信教の自由」が「親子の問題」にすり替えられ、公然と侵害されているこれらの被害の事実は、法治国家の日本の社会の中にあって、到底受け入れられるべきものではないのです。これは明らかな、人権侵害であります。
27. 宗教とは、人倫道徳の基いであり、その自由は、国家において、何よりも優先して、保証されるべき人権なのではないでしょうか。日本では、宗教に関しては、実に寛大であるということが、世間一般において良く語られることですが、それは、つまり、換言すれば、日本人は、宗教に対しては実にいい加減な国民であるということを自ら告白するようなものです。
日本国が真さに一流国家として、世界から認められる為には、何はなくとも、宗教を保護育成し、国民一人一人が、人間としての誇りを持ち天を敬い、為に生きる精神を育むことが重要であると考えます。
「道徳大国」になることこそ、日本国が生き残るための唯一の道なのです。
28. とにもかくにも、一宗教に対する偏見と無理解から、その宗教団体に所属する個人に対し、夫婦の関係も無視して、その信仰を侵害し、不法に逮捕監禁し、脱会や改宗を強要することは明らかに犯罪以外の何者でもありません。宗教や思想を論じ合う以前の問題です。
よって、警察ならびに関係各機関には、厳重に取締りをして頂き、適切な対処をされ、違法行為に対しては、速やかに厳正な処罰をされますよう、心からお願い申し上げます。
29. 終わりになりましたが、先述の私の妻を拉致・監禁するよう、妻の両親に指導した疑いの濃い、キリスト教の牧師の氏名と住所を左に記しますので、捜査のご参考にされますようお願い致します。
氏 名 清水与志雄(昭和29年5月26日生)
住 所 群馬県太田市八幡町1-14
電 話 0276(25)4334
職 業 日本キリスト教団太田八幡教会牧師
30. 事件発生から10日余りが経ち、私は妻の安否が心配でなりません。
先述の如き、暴力でもって拉致され、監禁されている異常な環境にあって、妻がどんなに苦しくつらい思いをしているかと胸が傷みます。
一刻も早く、妻の自由を回復し、保護し、本人の口より、これまでに私が述べた事柄に対する事実の確認をして下さいますよう、重ね重ね、強く要望するものであります。
そして1日も早く妻を夫である私の元へ返して下さい。妻も一番、それを望んでいる筈です。
31. 最後に、ささやかなお願いをして、私の陳述を終わりたいと思います。
○ 宗教に対する偏見から、互いに愛し合い、慈しみ合っている夫婦を暴力を持って引き裂くなどということは決してあってはいけないことです。穏やかな状態でいくらでも話しあい、理解し合って行けると考えます。
○ 私たちに、そして、すべての日本国民に、公共の福祉に反しない限りにおいて、自分の拝する神様に、自由に礼拝する権利を与えて下さい。
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2. 最高裁和解調書
3. 最高裁上告理由書
4. 最高裁での和解についての今利智也さんのコメント
今だに頻発する拉致監禁による強制棄教。今利理絵さんは2度その被害に遭っている。一度目は1995年10月、そして、二度目が1997年1月である。1月10日の夜、今利夫妻は、川崎市内のファミリーレストランで理絵さんの妹の誕生日祝いを催した。その帰りぎわ、理絵さんは、駐車場に出たところを暴漢に襲われワンボックスカーの中に押し込められた。助けようとした夫の智也さんは、両サイドから二人の男に力ずくで押し倒され、両ひざと左手を負傷した。
理絵さんが、連行されたマンションのドアは、チェーンと南京錠で、また、窓は内側から特殊な鍵で施錠され、監禁期間は5か月に及んだ。関与したのは、日本基督教団戸塚教会の黒鳥栄副牧師、群馬の日本基督教団太田八幡教会(当時)の清水与志雄牧師(現在、埼玉県行田教会)。牧師等からあらゆる誹謗中傷を受け、心身とも極限状態に追い込まれた理絵さんは、監禁から逃れるため、真意を隠し、信仰を失ったことを表明。その結果、ようやく解放される。
その後、悪夢や情緒不安定の症状に悩まされた理絵さんは、心療内科への通院を余儀なくされる。婚約者の智也さんと家庭を出発した後にも、「また監禁されるかもしれない」という恐怖が付きまとう中、自分の信仰と家庭を守るため、また、これ以上、被害者を絶対に出してはならないという強い決意のもと、家族と関与した牧師を刑事、民事、両方で訴えた。
ここから、今利夫妻の裁判闘争が始まる。
しかし、その闘いは順当にはいかなかった・・・。刑事の方は2002年4月、親族らは、「起訴猶予」、牧師は「嫌疑不十分」で不起訴に。民事裁判の方は、今利さん側が地裁、高裁いずれも敗訴という結果に終わっている。しかし、地裁においては裁判官が途中で変わり、判決日も二回も延期されるなど、おかしな動きがあったという。
今利夫妻にとって、その判決文は到底納得のいくものではなかった。そこで、上告理由書にそのことを記し、最高裁に上告した。
その後、最高裁は、長らく沈黙し続けた。そして、上告から一年後、最高裁が結論として下したのは、異例の「和解勧告」であった。
2006年3月、今利夫妻は、最高裁の和解勧告を受け入れ親族等と和解した。こうして、長い裁判闘争がようやく終わりを告げた。和解項目の第一項には、「当事者双方は相手方の信教の自由や価値観を尊重し、これに干渉しない」とあった。ここには、今利さん側の訴えが盛り込まれていた。
この時のことを、今利智也さんは、次のように振り返る。
原告側の弁護士によれば、最高裁での和解は実に稀有な事例であり、「弁護士人生で、私が知っている最高裁での和解事件は、東京都と銀行が外形標準課税に関して銀行が東京都を訴えた裁判が、最高裁で和解になった事例しか知らない」と言っておられました。
・・・そこで、上田判事が厳しい口調で被告人の両親に対して、「二度と同じことをしないように!」と説示をされました。被告側は弁護士も両親も恐縮した表情をしていました。
・・・ですから、最高裁は判決は避けましたが、1,2審の判決を破棄して、和解勧告をしたということは、明らかに親による拉致監禁は「あってはならないこと」という立場にあるということを、明確に示したものであると言明できます。
<最高裁での和解についての今利智也さんのコメント>より
理絵さんは、裁判闘争中に三人の男の子を出産した。二度の拉致監禁、その後の後遺症、そして長い裁判闘争・・・苦しかった闘いの日々を経て、理絵さんは、ようやく拉致監禁を恐れず、子供たちを連れて実家に帰省することができるようになった。しかし、拉致監禁によって失われた親子の信頼関係を取り戻すことは、困難を極めた。今年、初めての女の子を授かった理絵さんは母親から「女の子誕生おめでとう」という手紙と、手作りの赤飯を贈られ、嬉し泣きをしたという。
今利智也さんは、最高裁での和解についてのコメントで以下のように結んでいる。
統一教会ならびに、新興宗教、自己啓発セミナー等にご家族が入会し、心配しておられる方々には、この最高裁判事の和解勧告を重く受け止められ、決して「拉致監禁」という「暴力」的手段に訴えてまでの説得は厳に慎んでいただきたいと要請するものです。