原田和彦(当時32歳)の証言
事件の年 : 1989年
元相対者(婚約者)O・Kさんの脱会説得者(所属) :
宮村峻(㈱タップ社長)
事件の概要と経過 :
前年の1988年10月末6500双の祝福合同結婚式に参加した私は、当時の相対者O・Kさんと家庭を持つ準備を進めるべく、翌年の5月連休中にO・Kさんに実家に帰っていただき、ご両親に紹介していただくことになっていました。しかし連休後同じく教会員のO・Kさんの妹さんから、拉致監禁された模様との連絡をいただきました。その日から私の人生は、真っ暗やみ、地獄の底をはいずりまわるような日々が始まりました。
妹さんから連絡を受けた日以降の不安な日々、相対者(婚約者)救出に失敗し、悩みに悩んだために、記憶力減退、視力減退を来たした日々、似ている人を見ては「O・Kさんではないですか?」と声をかけ、違っていたというようなことを繰り返した日々、重い足取りで道を歩きながら、交通事故死を夢見ていた日々、散歩しながら、この道は荻窪方面に伸びている道と、その道の先に思いを致した日々、秀吉から切腹を命じられて、避けることなく割腹自決した千利休のことを勉強した日々が続きました。
そんな日々が重なって、ある日のこと、天気がいいということに腹を立てるようになってしまった自分に気がついたのです。このままいけば、きっと気が付いたら血の付いた包丁を持って渋谷や秋葉原の商店街に立っているということになるのではないか、と思い、思考法を変えることでその危機を乗り切ろうとした日々が、その後に続きました。長年培ってきた信仰観を変えるということは、簡単なことではありませんでしたが、ヒーリングサークルに通い、サークル仲間の明るい笑顔に支えられて、やっと立ち直ることができました。もしあのままの日々を過ごしていたら、犯罪者になっていたか、PTSDに苦しむ立場に立っていたかもしれません。(原田和彦)
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私は拉致監禁をなくす会の役員でもある原田和彦である。1989年は、今となっては遠い。あれからもう、20年以上が経ってしまった。しかし、きわめて不条理な、信じられない力によって、婚約者と離れ離れになってしまった記憶は、忘れることができない。この不条理な、信じられない力に対する怒りと、もしかしたらあの時もう少し冷静であれば、婚約者を取り戻すことができたかもしれないという自分自身に対する怒り……これが20年間以上にわたって、私を苦しめてきた。今、愛する妻と、子供に恵まれて生きるその境遇は、幸せであり感謝すべきものである。しかし、あの当時の婚約者は今はどうであろうか。彼女のことを思うと、幸せな今が、後ろめたい思いがする。もし街角で出会うことがあれば、今は幸せか、と聞いてみたい。
さて、ここに一冊の、日の目を見なかった人身保護請求書がある。当時の婚約者を監禁場所から救出するため、彼女の知り合いが、弁護士とともに準備してくれた書面である。なぜ日の目を見ることがなかったのか。それは、救出に失敗したこと、そしてその救出劇のさなかに、監禁された場所を脱出するため、自分ひとりの孤独な闘争をしていると感じたことから、その書面の提出は意味をなさないと判断したためである。彼女はおそらく偽装脱会という形で監禁場所から逃れる努力をしていただろう。ならば、彼女の人身保護請求書を提出しても、彼女はその書面を否定するだろう。ならば、この書面は、救出に失敗したのちには提出しても無意味であろう、と思ったのだ。
この人身保護請求書は、12年5カ月の拉致監禁を闘い抜いてきた後藤徹さんが、昨年(2009年)7月、私のために20年以上も前の婚約者の友人を探し出し、彼が持っていた当時の資料を入手してくださったので、私の目の前にそのコピーとして姿を現したのである。
またその救出劇のその日、彼女が拉致監禁されていたマンションに行った私、そして彼女の友人、彼女の妹の行動、発言も、彼女の友人が記録として残していてくださった。それも紹介したい。
ただ、それだけで終わるわけにはいかない。記録は記録に過ぎない。その当時に生きていた私には私の感情がある。その感情は、私の生活の中で、どのような働きをしていたのだろうか。私をどう変えたのか。そしてそれは現在の私にどのような形で残っているのか、探ってみたい。
また、拉致監禁被害者の方たちにとっては、苦痛は監禁された期間だけではない。監禁状態を解かれた後も、監禁体験が心の中のトラウマとなって、常に襲いかかってくる。中にはPTSDを発症される方もいる。私にとっても、婚約者が拉致監禁されたということ、そしてその救出が失敗に終わったということが、救出劇が過ぎ去った後も、精神に爪痕を残した。その後の心の闘いも含めて、思い出す限りを書き記してみたい。そして、冒頭に述べた、ひょっとしたら婚約者を取り戻すことができたかもしれないという体験を記すことで、救出できなかった彼女へのお詫び文ともしたい、というようなことを考えている。
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人身保護請求書の記述に入る前に私と元フィアンセOKさんの馴れ初めについて触れておこう。初めての出会いは、1988年10月下旬、確か29日ごろであったと思う。統一教会の6500双祝福国際合同結婚式の会場であった。金浦空港から約3時間くらいであったであろうか、バスに揺られて山奥に上って行った先の統一教会(統一協会)所有の飲料(メッコール)工場に着いた。よく晴れた日であった。また、とても寒い日であった。10月も下旬、晩秋の一日であり、多少は寒くなっていても不思議ではない。韓国の人たちにとっては、ありがちな気温の日であったに違いないが、日本から来た私にとっては、寒さに対する準備はしていたものの、それでもじっと立ってはいられないくらいだった。
工場についてから私は指示された手続きを済ませた。荷物を指示された場所に置いた私は、「出会いの広場」といったかどうか、今は記憶があいまいだが、愛する人同士の待ち合わせの場所とされていたところに行った。これから生涯の、いや永遠の伴侶となるOKさんと会うために。日本人事務局に行って、まだOKさんが手続きをしていない、つまりまだ到着していないことを確認した私は、「出会いの広場」で、同じように愛する人を待っている多くの日本人たちに交じって、空を見上げた。
空には、約30分くらいの間隔であっただろうか、高く舞い上がりつつある飛行機、また降りてこようとしている飛行機が、小さく、小さく、飛行機雲の線を引きながら少しずつ動いていた。「天高く馬肥える秋」という言葉がぴったりするようによく晴れた、空気の澄み切った秋空に、点のように小さな飛行機が一機、また一機と姿を現しては消えていった。あの飛行機に乗っているのかな、またはあの飛行機かなと、機上の人を想像しながら待ち続けた。
午後のまだ早いうちは、日差しによって寒さが緩和されていたが、夕方になり、日が暮れるころには、愛する人を待っている日本人たちには、耐えがたいものになった。だれかが音頭を取って、輪になった。そして歌を歌いながら、とび跳ねたりリズムに乗った動きをして、輪を回転させたりしながら、体が温まるように踊った。そして待ち続けたが、なかなかOKさんは到着しなかった。
日もとっぷりと暮れ、夜の工場内のどこからか文鮮明師の声が聞こえてきた。み言葉が語られているらしい。フィアンセと出会えたカップルは、その会場に行って、み言葉を受けていた。まだ出会えない私たちはただひたすら相手を待った。夜も9時を回ったころだろうか、寒さの中で待ち続ける私たちを思いやってのことだと思うが、待ち合わせの場所を体育館のような室内に変更するとの連絡があった。その建物に入った私たちは、列をなして座った。そして、更にひたすら待った。10時を過ぎたころであろうか。私の名前が呼ばれた。「来たーっ」。私は列の後ろに下がろうとした。同じ通路を、向こうから歩いてくる女性の姿があった。
私は目を上げることができなかった。生涯で一番大事な瞬間だった。永遠を共にする人が前から歩いてくる。私は床に目を落したまま、その人に向かって歩いた。そしてその人が目の前に来たと思った時床から足へ、足から体へ、体から顔へ、ゆっくりと視線を移していった。「OKさんですね」。他のことは、もう20年以上も前のことなので、忘れていることが多いのだが、その瞬間のことは、やはり永遠の伴侶に出会う一瞬ということであろうか、忘れられない思い出として、今でもはっきりと思い出す。
挨拶をして、OKさんは来るのが遅れた理由などを簡単に話してくれた。若干話をした後、み言葉が始まっているということで、会場に行って、並んでみ言葉を聞いた。文鮮明師は遅くまで私たちのためにみ言葉を語ってくださった。
翌日、私はOKさんから身の上話を聞いた。それは、拉致監禁された体験に関するものだった。OKさんは妹さんとともに、拉致監禁されて北海道のアパートにいたのだった。外からしかあかない玄関のドアなど、信じがたい状況を話してくださった。そして妹さんと連携して、そこを脱出したのだと語ったのだった。そして、私にそっと尋ねた。「それでも、私と祝福を受けてくれますか」と。実は、後で振り返ってみると、この瞬間が、その後の運命を決めるとても大切な瞬間だった。私はなぜあの時に、もっと深刻に受け止めなかったのだろうと、反省し続けることになった。
あの時、もっと深刻に受け止めていたら、OKさんを実家に帰すようなことはしなかっただろうに。今だったら、私は間違いなく、先に結婚生活に入り、まず子供を何人か授かることを先に選んだであろう。そして、ご両親を含めたご親族の復帰は、もっと何十年かのスパンで取り組んだであろう。拉致監禁という事態の深刻さを、OKさんから聞き、頭では理解したつもりになっていたが、本当に深刻に受け止めていなかった。だから、半年後の五月の連休を前にした時、あんなばかげた提案をしてしまったのだ。結婚生活に入る前に、ご両親にごあいさつをしたいなどと提案してしまった。バカもバカ、大馬鹿野郎だ。自分にいくら言っても、もう取り返しがつかないのだ。
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このように執筆していると、OKさんと出会った時の会場のことがだんだんと思いだされてくる。そう広いとは言えない会場に、6500組のカップルが集まるわけだから、休憩時間に移動するのに、手をつながなければはぐれてしまうくらい、もみあいながら移動した。目で罪を犯すのさえ問題とされる教会員としての生活を11年ほど続けてきた私の取って、手をつなぐとは……とドキドキしたことを覚えている。会場の係りの人は「手をつないで移動しないと、はぐれますよ。ただし、この時だけですからね」と念を押すのを忘れなかった。また、文鮮明師がみ言葉の中で、「キスをしなさい」といわれたことがあった。これが何か神様との約束事になっていたのかどうかは知らないが、文師は何度も進めた。「3秒間目をつぶっていてあげるから」ということであったが、私はついに唇にキスすることができずに、OKさんのおでこにキスをした。日本に帰ってきてから知り合いに、あの時はどうしたと聞いたら、しっかりキスしたよ、という答えが返ってきて、私もしておけばよかったと後悔した次第である。
そんなことや、あれこれが次第に思い出されてくる。が、会場でのことはそれくらいにする。OKさんと私の出会いについては、拉致監禁にまつわるようなものはこれくらいである。
次に翌年の2月ごろであっただろうか、時期的なことは記憶があいまいだが、初デートをした。群馬県内の統一教会高崎教会に彼女を訪ね、お互いの生い立ちからその当時に至るまでの生涯路程とか、家族のこととか、実家のことなどを紹介しあった。近くにおいしいお蕎麦屋さんがあるというので、観光名所となっている地域の蕎麦屋に連れて行ってくださった。自動車で連れて行ってくださる車中で、長女であること、ガキ大将だった小学校時代のこと、中学高校生時代のこと、統一原理に触れた経緯などを教えてくれた。
当時中部関東地域を回る巡回師のような立場であり、小学校でのガキ大将の性格が、中学校、高校時代は影をひそめていたが、その後また出て来たようだと話していたが、話している中にもそういう、一ランク大きな器を持っている雰囲気が感じられた。私自身が、あまり腹の据わっていない人間だから、文鮮明師はよく見ているな、タイプの違う人をマッチングさせてくれたのだ、と納得している。今の家内も、そういえば私を尻に敷いているような節があるが……。OKさんはそういう人だったから、もし拉致監禁されないでわたしと世帯を持って教会活動を続けていれば、江利川女史のようなタイプの女性指導者になっていたのではないかと推測する。またそういうタイプであったからこそ皆をまとめてあちらこちらを移動していたのか、と当時私は受け止めていた。しかし今から思えば、それが彼女と所属教会にとって、2度目の拉致監禁を防止するための策だったのかもしれない。
私は、初デートの際に自分が何をしゃべったのか、覚えていないが、おそらく高校生時代に神体験をしたことなどをお話ししたのではないだろうか。また学生時代に大学入学後約7カ月後に統一原理を受講したこと、翌3月に教会生活を始めたことなどを話したのではないだろうか。次回から、いよいよ拉致監禁事件の本番に入る。
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20年間、私はある一つの幻想にとらわれてきた。それは、救出のXデー以外の日に自分が住んでいた、当時永福町にあった(今もあるのかどうかは知らない)の世界日報社の販売店から荻窪に歩いて行って、OKさんが監禁されていたマンションの部屋を眺めている自分の姿である。実際に歩いて行ったのか、あるいは単なる幻想に過ぎないのか、実のところはっきり覚えていない。しかし、昨日、ネットで地図を見ると、自分の住んでいたアパートと、彼女が監禁されていた荻窪のマンションは、40分前後で歩いて行けそうな距離である。また実際に、散歩の時には、荻窪方面に伸びている河川の散歩道に沿って、散歩したりもしていた。実際に歩いて行ったかどうかはっきりとした記憶はないが、散歩する時にはいつも、この道を行けば荻窪に近づくという思いを持っていたことだけは確かである。それほど、荻窪は、身近であった。私がOKさんの拉致監禁時に住んでいたのは、杉並区高井戸西にあるアパートで、私は世界日報社に勤務していた。編集局の記者をしていた。京王井の頭線の富士見が丘駅近くにあったそのアパートは、会社で借り上げたアパートのようでもあった。アパート全体を借りたわけではなく、統一教会とは関係のない方も住んでいたが、確か会社の教育関係の部署で借りている一室もあったように記憶している、記者は記者同士で、別の一室に共同で住んでいた。そのアパートの階段から、荻窪方面を眺めては、この空は彼女の監禁されているアパートにつながっていると、物思いにふけっていたものである。話が前後したが、この稿の冒頭に述べた販売店は、富士見が丘のアパートを出た後に住んだ、京王井の頭線永福町駅近くの家屋で、記者は記者同士で家の中の一室を借りて三人で住んでいた。近くを流れる善福寺川沿いの緑地と道路が、荻窪に向かって延びている。この道を行くと、荻窪に近づく。そう思うと、ほとんど毎日のように散歩がしたくなった。荻窪まで歩いていって、彼女が監禁されているマンションの部屋を遠くから見たような、そうでないような、陽炎のようなおぼろげな幻想が、私の記憶の中に残っている。
彼女と知り合った合同結婚式から2,3カ月たったころだろうか。私は富士見が丘のアパートにあった食堂で、いつ結婚生活に入るのだろうか、と思いを巡らせていた。統一教会では合同結婚式に参加して知り合った同士で所帯を持つと、祝福家庭と呼ばれる。パウロは聖書の中で、自分の欲情を抑えられないなら、淫行にふけらないように結婚してもよいが、できれば結婚しない方が望ましいと語っている。一般的に宗教では男性と女性が一つになることは、概して奨励されないが、統一教会では、神様公認の家庭生活を営むことがベストとされる。文鮮明師に推薦された二人が合意の上で結婚し、子供を産み増やし、家庭生活を営む……これが天国生活の道場となる。
そういうふうなことであるから、これから結婚生活に入るということは、未知の世界に入るということのようでもある。期待と不安でいっぱいの時期であった。
そんな中で、ふと、自分の両親に彼女を紹介し、相手のご両親にもご挨拶に伺わねば……などと普通のパターンを考えていた。これがまたおろかな考えであったことは前回述べた。しかし、私の周囲には、拉致監禁被害者はいなかった。また拉致監禁という言葉さえ、合同結婚式の会場で彼女から説明された以外に、触れることのない、のどかな生活であった。最近、拉致監禁をなくす会の代表である小出さんと話したことであるが、20年前に今のような会があったならどれほど良かったことか。
また統一教会の方でも昨年来力を入れているようであるが、20年間で4000人、ということは毎年200人もの人が拉致監禁されながら、ようやく腰を上げたのは、いささか遅きに失した観がある。私にだれも忠告したり、進言したりしてくれる人はいなかった。何も分からない、相談する人もいない中に一人置かれていたわけである。しかし、そのような中でも、拉致監禁多発地域の組織は相当深刻に捕らえていたようで、OKさんの所属地域で活動しておられたTさんは自ら担当となられて、身命をなげうって、救出活動に専念しておられた。この方がいなければ、OKさんの救出劇はなかった。この場を借りて感謝申し上げる。
さて知り合ってから半年間のうちのある日、私は後で何度も悔やんだことだが、ご両親にあいさつしたいと、OKさんに手紙を送った。OKさんからは、最近はご両親も軟化しており、教会にも足を運んだりしている、大丈夫ではないかと思うので、5月のゴールデンウィークに実家に帰るとの手紙をいただいた。今振り返ってみると、それはご両親の用意周到な2回目の拉致監禁の準備であったと思われる。
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1989年4月末からのゴールデンウィークを迎え、今頃OKさんは私を紹介してくれているだろうかと、実に能天気な思いで待っていた。しかし、連休が終わった5月12日ごろ、彼女の妹さんから深刻な連絡が入った。OKさんがまだ教会に戻ってきていないと。しまったと思った。そのときに、私の自分の考えが浅はかだったことに気がついた。と同時に、これからどうなるのだろうと、不安が広がった。高崎教会の、拉致監禁対策担当をしておられたTさんから連絡を頂いた。彼女は拉致監禁されて、荻窪にいるらしい。場所がわかったので、待ち合わせをして、救出したいとのことであった。私はOKさんのことであるので、主体者として毅然とした行動をとらなければならなかった。そして、ついにXデーが来た。
月が変わって6月5日の朝、荻窪駅近辺の喫茶店で打ち合わせをした。Tさんと、OKさんの妹さんが来てくださった。ほかに、ずっとOKさんのために張り込みを続けてくださった人がいた。その人はそのときも張り込み中で、現地のマンションの前で落ち合うことにした。
緊迫感あふれる打ち合わせが続いた。Tさんは、Tさん自身の元フィアンセが拉致監禁され、自身で張り込みを続けて一週間といわれたか三日間といわれたか記憶があいまいだが、居場所を突き止めた詳細な経緯を話してくださった。そのときのご自身の執念、そして最終的に元フィアンセから戻る意思がないと告げられたときの慟哭にも似た思いを語ってくださった。その体験から、拉致監禁に対しては絶対に許さないという決意で、担当として取り組んでおられること、ほかにもさまざまな拉致監禁に対してどこまでも追いかけてこられたことを話してくださった。
そして、フィアンセの救出には、私がどこまでも張り込みを続け、救出するという覚悟が必要だと、私の取り組み姿勢を正してくださった。打ち合わせをしているうちに、弁護士が到着。荻窪駅から歩いて数分のマンションに到着した。午前11時のことであった。
「荻窪フラワーホーム」。私の脳裏から永久に消えない名前となったそのマンション。今も多くの拉致監禁被害者の間で語り継がれている、恨みの染み付いているマンションだ。斜め前、マンションに出入する人から気づかれないように待っていた人がいた。OKさんの救出のために張り込みを続けてくれた人だ。
その人の顔を、最近あるホームページで見た。20年ぶりのインターネットでの再会だ。色白で、目を細めて微笑んでいるその顔は、20年前の若者の顔とは違い、さすがに年輪を重ねた熟年男性の顔だったが、紛れもない20年前のあの青年だった。新津福音キリスト教会の小池宏明牧師。その写真の上には、拉致監禁をなくす会の小出浩久代表や後藤徹副代表も被害にあったという、拉致監禁で有名な松永堡智主任牧師が笑顔で掲載されている。20年前のあの青年は、風の便りでは、その後も数回拉致監禁され、ついには牧師になったという。なんとも皮肉な、ネット上の再会であった。
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昨年6月28日、拉致監禁をなくす会のビラ配布に、当時非会員として初めて参加した。配布終了後、後藤徹副代表と荻窪フラワーホームに一緒に赴き、マンションの場所と、OKさんが監禁されていた部屋を確認した。荻窪駅から歩く方向は間違っていなかったのだが、もう20年以上も前のことであったので、記憶が違っていて、道一本間違えてしまった。しかし、その通りから正しい道につながる道があり、その道を歩いて行った突き当たりに、フラワーホームはあった。20年ぶりのフラワーホームとの再会であった。20年前にあったとかすかに記憶していたコンビニが、確かに建物の斜め前にあった。確かにこの建物であると確認した。OKさんと合同結婚式の会場で出会った時と同じように、すぐに看板を直視できなかった。
建物の入り口の下の部分から、視線をだんだんと上げていった。そして、荻窪フラワーホームの看板が、視界に入ってきた。「これだ。20年ぶりの再開だな」と心の中でつぶやいた。後日談ではあるが、この私の視線が後藤さんには不審に思えたようで、「最初はフラワーホームがどれだか分りませんでしたね」と尋ねられたことがある。そうではなくて、私の目の前にフラワーホームが建っていることは理解していたが、当時の通りの風景を思い出し、再訪した時の風景と重ね合わせながら、確かにここだと確認していたのである。
後藤さんと、そのフラワーホームのエレベーターで昇りながら、部屋まで行った。20年前の緊張感が、心の中にありありと思い出されてきた。再び20年前にタイムスリップする。
これほど時間の長さを感じたことはなかった。弁護士、小池宏明氏、そしてOKさんの妹さんとともに乗ったエレベーター。目指した7階に昇りきるまでの時間が長かった。次第に胸の鼓動が高鳴ってきた。OKさんに会えるか、そして救出できるだろうか。物理上の時間としては瞬時かもしれないが、心の中の時間としては、ずっと長い時間が経過した。そしていよいよエレベーターのドアが開いた。エレベーターを降りて、左に行き、突き当たった辺りの部屋。玄関のドアは、外からみて左側が開くようになっていた。ドアの開く側に、私と弁護士が、そしてその後ろ辺りに妹さんが立った。
いよいよその瞬間が来た。意を決して、ドアをノックした。すると、玄関が開き、中から年配の女性が顔をのぞかせた。OKさんのお母さんであった。実は、この瞬間が勝負だった。が、そのことは、後で気がついたことである。挨拶をするよりも、ガッと踏み込んで、一目散にOKさんを探すべきであった。しかし、弁護士を同伴していたので、私だけでなく弁護士までも不法侵入に問われたら、弁護士に傷がつくであろうという迷いが一瞬生じた。その迷いがすべてのチャンスを奪った。
「OKさんの婚約者の原田和彦です。」と名乗った。弁護士が身分を告げた。その瞬間、ドアがばたんと閉められた。中から施錠する音が聞こえた。弁護士がドアをノックしながら「もしもし、もしもし」と繰り返して呼んだ。妹さんが「お母さん、○○○です。あけてください」と何度も叫んだが、ドアは開けてもらえなかった。後になって考えたことだが、不法侵入の罪よりも拉致監禁の罪のほうが重いはずだ。ガッと救出し、弁護士がOKさんの意思を問うていれば、事は終わったはずだ。一瞬のためらいが不幸を招いた。
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このままノックし続けても、埒が明かないと判断した私たちは、警官を呼ぶことにした。確か私の記憶では、小池宏明氏が呼びに行ってくれたように思う。しばらくして警官がきた。荻窪駅南口の交番の佐々木という警官だった。警官は705号室のドアをノックした。「すみません、荻窪警察署の佐々木と申します。ちょっとお伺いしたいことがありますので、開けてもらえませんか」と数回呼びかけた。反応があった。警官は弁護士に「知り合いの人に電話したようです。その人が来なければ開けないといっています」と告げた。普通、警官が来たら開けて警官の質問に答えるだろう。突然の出来事に、お母さんが狼狽している様子が推測できた。自分が住んでいる部屋に警官が来たのだから、自分で答えるのが普通であるのに、「知り合い」を呼ぶというのだ。その「知り合い」の指示を受けなければ、どう対処したらよいか判断ができなかったのであろう。
弁護士が佐々木という警官に、事情を説明した。OKさんが拉致監禁されたとの知らせを受けて、このマンションを訪ねたこと、そして「本人(OKさん)の(拉致監禁されているかどうかという)意思を確認したいだけなのです」という来訪目的を告げた。
その後、私服警官の安達氏と本川氏、それに作業着姿の警官の3人が来て、私たちにマンションから退去するよう勧めた。私服警官らは、両親が同居しているので拉致監禁ではない、本人の意思を確認するなら電話で確認すればいい、日中マンションでごたごたを起こすな、などと、まことにこの種の拉致監禁事件の手口を知らない主張を繰り返した。本人の本意を電話で確認できるくらいなら、こんなところには来ない。どこにいるか所在不明であるからこそ、このマンションを探し当てたのだ。
また警官らは、キリスト教の牧師らが両親をそそのかして拉致監禁を実行させるその手口を知らないから、家族の問題だというウソにだまされてしまう。荻窪周辺のキリスト教牧師の中で、今はもう故人であるが荻窪栄光教会の森山諭牧師は、知る人ぞ知る、拉致監禁による脱会手法を全国に広めた張本人である。
聖書でイエス様が、多少異なった考えを持つ民には拉致監禁をしてでも改宗させよと命じたであろうか。聖書にそう書いてあるだろうか。イエス様は迫害するもののために祈れと命じた。右のほほを打たれれば左のほほをも差し出せと。牧師らが両親に対して指導していることは、その逆である。右のほほを打ったら(拉致監禁で改宗させたら)、左のほほも打て(元所属の教団に対して裁判を起こせ)と。異なる教団をもっと迫害せよと、反対弁護士らとともに、異なる教団に所属する子息の親を煽動しているのが、拉致監禁を煽動する牧師らの実態である。つまり、イエス様の教えにそぐわない内容を指導している、アンチキリスト牧師。これが彼らの実態なのだ。
さて、弁護士は私服警官らに「座敷牢があるのかどうか、確認に来ているのです。代理人としてきている私に対して、何ですか、その言い方は」と訴えた。私たちは、他の住人に対して迷惑をかけるといけないということで、警官との交渉は弁護士に任せることにした。本川氏と弁護士がエレベーターで下に下りていき、別の場所で会合した。
そうこうしているうちに、OKさんのお母さんの「知り合い」が来た。いよいよ真打登場であった。その「知り合い」は宮村峻と名乗った。あの、後藤徹副代表の12年5ヶ月拉致監禁事件で書類送検された、あの宮村峻である。拉致監禁被害者の間では、その名を知らない人はいない、暴力改宗を請け負う人物だ。彼はエレベーターから出てきたところで、私に向かって豪語した。「俺は宮村だ。俺の名前を知らないやつは、統一教会員としてはモグリだ」と。
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私たちのOKさんへの面会要求に対し、宮村は「本人が会いたいといえば、じゃ、入ったらいい」と応じた。ところがこれは、ポーズに過ぎなかったことがすぐに分かった。OKさんのお母さんが同意した次の瞬間、宮村は警察の人と一緒に入ると言い出したのである。警官の一人、安達警部補が宮村と一緒に入ろうとした。私と妹さんは、当然同行できるものと思い込み、一緒に入ろうとした。私は婚約者であるので、婚約者が拉致監禁されているならば、助け出したいと思うのは当然である。このままでは婚約破棄になりかねない、という意味ではこの拉致監禁事件の被害者であり、当事者の一人だ。当前本人から、ここから出たいのかどうか聞かなければならない。妹さんも、お姉さんのことであるから、お姉さんと直接会って話がしたいだろう。それで同行しようとしたのである。
ところが、ほかの警察官が「警察官一人だけだ」と私たちが入るのを阻止し、入室することができなかった。とても考えられないことである。婚約した当事者同士を合わせないというのは明らかに警察の判断ミスであろう。
その後約5分くらい経って、宮村と安達警部補が出てきた。ちょうどその時、打ち合わせをしていた本川氏と弁護士が7階に上ってきた。安達警部補の説明によると、玄関の内部には2間くらいの部屋があり、その奥の部屋で、OKさんと警部補の二人で意思確認が行われた。そしてまたマンションには監禁しているOKさんのお母さんと、拉致監禁請負人の宮村がおり、尋問が終わると宮村が部屋に入ってきた。本人はここで、私に会いたくないといったとのことである。だが、私は祝福合同結婚式の会場で、前回拉致監禁されたときの状況を聞いており、OKさんがここで本心を語ったとは到底思えない。前回拉致監禁の時、警察はいくら拉致監禁されたといっても信じてくれなかったとのことだった。拉致監禁の現場から逃げてきても、家族の問題ということで結局は監禁している親に戻される、そういう経験をしたOKさんは警察官には本心を言っても無駄であろう、また拉致監禁の期間が延びるだけだ、と判断していただろうと思われる。
その後、Tさんや小池宏明氏、および私と妹さんと弁護士は、再び警官から退去するよう指示されて、やむなく別の場所で打ち合わせをした。自動車でどこまで移動したか、私には記憶がない。救出に失敗した……この思いが、私の心にずっしりと重くのしかかってきた。とある事務所で、5人で今後のことを打ち合わせたが、私の頭には、パニック状態というか、思考能力が残っていなかった。永遠を誓った間柄の、宇宙で二人といない大切な人が、自分の手の届かないところで苦しんでいる……そして、その思いがまた私の心を、頭を占領する。一応打ち合わせで、何かをしゃべったとは思う。Tさんからは、人身保護請求書を準備しているが、これをどうするかという提案があった。「これを出して効果があるだろうか。今回、OKさんは、警察に対して私に会いたくないと言った。」と私は反対したようにかすかに記憶している。私の意見は筋論としては、間違っていないと思うのだが、内心は、もうそういう状況から逃げたい、何も考える余裕がないという思いが充満していた。そこからが私の地獄の始まりだった。
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OKさん救出失敗後の打ち合わせで、Tさんから、OKさんは偽装脱会中であるかもしれない。このまま脱出を待つのが得策であるとのご提案をいただき、私も精神的なショックから何も考えられない状況であったので、そうすることにした。それからの日々が、私にとって苦闘の日々であった。
祝福合同結婚式で結ばれた夫婦は、お互いに後にも先にもない配偶者で、夫婦が一つの宇宙とすれば、宇宙の半分くらいの価値を持つ人だと思っていた。今の家内は、人は違うけれども、やはり私はそう思っている。そのような感覚であったので、何か人生が終わってしまったかのようなショックが私を襲った。このまま死んでしまおうか、でもキリスト教では自殺は罪である。道路を歩いているときは、いつも、交通事故に遭って死ねば、自殺ではないだろうなどとついつい考えてしまう毎日であった。悩みに悩み、地獄の底をはいずりまわるような心境の毎日が続いた。
あるとき、日が陰ってきたのかな、夕暮れみたいに暗いな、と思った時があった。6月5日に救出が失敗に終わった後の夏至のころのことであった。会社の中が暗い。もう5時か6時くらいかなと思って時計を見た。すると、時計は2時を指していた。6月下旬ころの午後2時だから、日が陰るはずがない。何だろう、目が悪くなったのかなと思った。そのうち、今何をしていたんだっけ、と記憶が薄れてきた。そういえば、ちょっと前には何を考えていたのだろう、と思いだそうとするが、思い出せない。5分くらい前のことが、思い出せないのだ。
そんなことが続いてから、ふと気がついた。悩みすぎたんだな、そしてそれが視覚や記憶力に影響を及ぼすくらいに、神経を鈍らせてしまったんだなと。医者でないので、真相はわからない。だが、困ったことに、いま自分が何をしようとしていたか、思い出せないのだ。それで、今ペンを握っているし、原稿が目の前にある、それなら何か書こうとしていたに違いないのだが……と筋道だてて考えて、やっと、あ、5分前には、今日出稿しなければならない記事を書こうとしていたんだ、と思い出す始末であった。そんなことが何度も続いた。
実は、救出劇を1989年6月5日に行ったという事実関係は、拉致監禁をなくす会の後藤徹副代表が入手してくださった資料により確認し、思い出したものである。昨年7月に後藤副代表が、Tさんを探し出してくださって、Tさんが20年間大事に取っていてくださった資料をもらってくださった。おそらく後藤副代表はその資料に目を通していたことと思う。私は後藤副代表に、救出劇はいつごろのことだったかと何度も聞かれて、いつも夏至のころだった、それに外に考えられないと何度も答えていた。後藤副代表は、宮村起訴に向けて手立てを探し出そうと懸命になっていた時期であったので、何度も、私が正解を言うチャンスを与えてくれたのだと思う。しかし、私は資料を見るまでついぞ正解を思い出せなかった。今から考えれば約20年前の1989年の6月前半は、通常の記憶力さえほとんどなかった時期だったので、いまにいたるまで記憶がすっぽり抜けていたのだと思う。ただ、薄暗くなった会社内、何をしているか分からないで机に座っている自分という記憶のみが残っている。
人から仕事について指弾を受けたことはないので、それなりにこなしていたのだろうと思う。しかし、夕方だと思ったのに、時計を見れば真昼間だった、ちょっと前まで何をしていたか思い出せない、という毎日が続いた。そんな時だった。会社のすぐ近くで、OKさんそっくりな人を見かけたのは。
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OKさんの救出が失敗に終わって、どれくらい経っただろうか。今となっては正確な日付は記憶にない。が、会社のすぐ近くで、OKさんにすごくよく似た女性が立っていた。その時私は、その方の顔を見た。相手の方も、私を見つめていたように思う。その方の顔は輝いていた。で、私はどうしたか。よく似ているな、と思いながらも、いまいちOKさんだという確信が持てずに、通り過ごしてしまった。拉致監禁されたOKさんがそこに立っていたという可能性はある。私は引き返した。その人に氏名を聞いてみようと。しかし、その人はすでにそこにいなかった。宿舎に帰ってから、祝福合同結婚式の会場で並んで撮った写真を見た。やっぱり似ている。この人ではないか。と思ったが、すでに2度目の救出のチャンスは去った後だった。
なぜ確認もせずに通り過ぎたのか。おそらく最高に落ち込んでいる最中で、記憶力も無きに等しい中で、似ている人もいるものだ、くらいの感覚で見ていたのだと思う。もしその人がOKさんだったとしたらという、声をかけなかったことに対する後悔の思いが、更に私を追い詰めた。今もし街角で会う機会があれば、お詫びしたい。何度お詫びしても、お詫びしきれないことだと思うし、もしその人がOKさんだったら、きっと許してもらえないだろう。しかし、偶然にも合うことがあれば、その時のことを聞いてみたい。
このことへの後悔ということもあって、その後の私は、少しでも似ている人がいたら、OKさんではないですかと、声をかけ続けた。宿舎近くの街角で、「すみません、OKさんではないですか」と声をかけた。振り向いた顔は全然違っていた。永福町駅から渋谷に向かう京王井の頭線の車内で、2回も同じ人に声をかけてしまい、怪訝な顔をされたこともある。きっとその時の私は、今でいう「不審者」そのものだったのではないか。
荻窪で拉致監禁されているはずだが、なぜか近くにいるような気もしていた。近くの銭湯に行くときも、帰る時も、絶えず、あの人は似ている、この人も似ている、と女性の顔ばかり気にしていた。
あるとき、団地の中を白髪交じりの男性が、後ろに女性を乗せて、自転車を走らせていた。これも、その人たちがOKさんの親子かどうかは分からなかったし、荻窪からその団地に来ていたのかどうかもわからない。が、私はじっとその姿を見ていた。昼下がりの日光で熱せられた団地のアスファルトが、ゆらゆらと陽炎を発生させていた。その陽炎の向こうで、自転車の後部に座った女性の姿がだんだん遠のいていく。
永福町の駅を降りて、歩きながら宿舎としてあてがわれた販売店の部屋に帰るまで、何度交通事故死を望んだことか。対向車線から自動車が突っ込んでくれたら……。常軌を逸した想像が、頭の中に充満していた。そんな日常がずっと続く毎日であった。この連載の初めのころに、永福町の善福寺川緑地を散歩しながら、この道は荻窪に近づく道だと思って歩いていたのも、そのころだった。
1989年の7月であっただろうか8月であっただろうか。思い立って彼女の実家に行った。荻窪のマンションに救出に行って失敗した後のことだったので、彼女に合わせてくれる可能性どころか、親が会ってくれるかどうかもわからなかった。しかし、どんな可能性にもかけなければ、と思い、茨城県古河市の実家を訪ねた。もともと、こういうことがなければ、挨拶に伺うつもりであった。時すでに遅しであったが、改めて礼儀を重んじておこうと思った。安い土産菓子をてに、玄関の前に立った。住所は、分かっていた。OKさんのお父さんが応対してくれた。OKさんは、と尋ねると、さっきまでいたが、ちょっと外に出たといっていた。改めて「OKさんをください」と頭を下げた。結果は最初から想定できたが。詳しい会話は覚えていないが、結婚を認めてくれれば、世界日報社を辞めてもいいくらいのことは言ったと思う。相手にとっては、私が統一教会関連企業の社員であることが、拉致監禁に及んだ理由の一つだっただろうから。ある程度ねばったものの、お引き取り願いたいとのことばを受け、OKさんの実家を後にした。
そんな日々を過ごしながら、あるとき、これは何とかしなければ、気違いになるか、精神異常者になって、我を失って事件を起こしてしまうかもしれないと実感したことがあった。
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いつのころだっただろうか。その内容は今でも覚えているが、一連の夢を見続けた。一日一日と、ある結果が私に迫ってくる夢だった。その夢の初めのころ、私は夢の中である町の民家にいた。その民家では、OKさんが半年前に住んでいたといわれた。次の日、また夢を見た。ある村のある民家で、そこに三か月前に、OKさんが住んでいたといわれた。さらに別の日の夢で、別の街を探していて、そこ民家で1か月前にOKさんが住んでいたことが分かった。……まるでダウン・タウン・ブギウギ・バンドの「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」を地で行くような夢だった。3週間前、2週間前、1週間前と来て、3日前、2日前、そして昨日まで、と続いた。そういえば、「港のヨーコ~」でも、最後のフレーズは「たった今まで座っていたよ、あそこの隅のボックスさ」なのだ。さて、今日の夢はどうなんだと、ドキドキしていたが、そこから先は、なぜか続かなかった。何か見たいような見たくないような、救出できるような、あるいは不幸な結果が待っているような、希望と不安が混じりすぎて、夢が見られなかったのかもしれない。
そんな日々の連続であった。交差点を渡っているときには、常に交通事故への期待と、他方で死にたくない不安と、そんな思いが交錯していた。そんな耐え切れない日々を過ごしていた私に、神様が見せてくれたのであろう、千利休の自決をテーマにした映画の興業が始まった。
千利休は、お茶をたてるときに、どんな気持ちでお茶をたてたのであろう。古田織部などの戦国武将を相手に、たてる茶とは、今の茶道とはちょっと違った趣があったかもしれない。「一期一会」という言葉がある。茶道に由来することわざで、『あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのもの。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう』と言う意味の、千利休の茶道の筆頭の心得だそうだ。
言葉で言うのはやさしい。しかし、利休の時代、目の前の相手は、明日は戦陣に散るかもしれない武将である。今日お茶をふるまうことができても、明日は……。そう。文字通り、「一期一会」の茶会であったわけだ。そして、その利休も、秀吉の断罪により、切腹をもってこの世を去った。
私はそのことに思いを致しているうちに、イメージトレーニングをしてしまった。「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」ではないが、想念の中で、自決してしまった。すると、少し楽になった。信仰とは、神様の前に自分をなくすることであると思っているが、自分がなくなると、本当に楽になるものだ、と思った、それからは毎日、苦しいときには刀を自分の腹につきたてるイメージを繰り返した。
ま、しかしそんなことで苦しみが究極的に解決するはずはなかった。夜は必死にお祈りした。OKさん、苦しい環境の中で、頑張ってくださいと。このまま生涯待っていようとも覚悟した。実際は次に再祝福を受けることになってしまったが。そのころ、道を隔てた隣の住宅が気になった。私が夜お祈りをする声がうるさかったのか、灯りを消して部屋は暗くして寝ているようであるが、テレビのスイッチは付けているようで、暗闇の中で青白い光がずっとついていた。どうも独身女性が住んでいるようであった。確信があったわけではなかったが、私の頭の中を占拠していたのは、OKさんのことだった。こうなってくるともう、ストーカーに近い世界だ。危ない線まで行っていたかもしれない。
そんな中で、翌1990年の3月ごろであっただろうか、私の精神世界に異変が起きた。
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さて、この連載も今回で一応区切りとする。で、前回の最後に、精神的におかしくなったのではないかと感じたと書いた。それは、ある晴れた日のことだった。私の住んでいた永福町の世界日報販売店の隣の家の白壁が、日に照り映えて、まぶしかった。天気が良く、すがすがしいはずのその時、その瞬間、私はなんとなく腹が立ってきた。別に何かの理由があるわけではなかった。が、だんだんと腹が立ってきたのであった。私がこんなに苦しみ中にいるのに、このよく晴れたよい天気は何だと。ここで、私は自分の中に異変が起きていることに気がついた。腹立たしい自分と、何とかしなければおかしくなって、犯罪でも起こしてしまいそうだと心配する自分が、せめぎ合った。
それから私は、もういい加減にこういう苦しみの世界から脱却しなければならない、そうしなければおかしくなってしまうと、ヒーリングの世界に没頭することにした。じつはそのころ、2月ごろにヒーリングサークルを取材していた。その時には、取材対象として、別の言葉でいえば他人事として見えていた。が、自分がこういう状態になって、今度は自分の前に姿を現した。4月ごろからであっただろうか、今度は取材のためではなく、そのサークルに自分のために通うようになった。そのサークルは、統一教会とは全然関係のないサークルであった。
そこでは、深層心理の世界を変えるためであろうか、さまざまなゲームをして楽しんだ。今覚えているのは、木や動物など、身近にいるものの格好をして、そのものがどんな気持ちでいるのか思いをいたしてみたり、二人一組になって一人がカウンセラー役になって、今まで他人に一番言いたくなかった、胸の奥に秘めていたいやな体験などを語り合ったりするゲームなどを行った。
私はこういったゲームを通じ、自分の信仰観を変えていった。この変化がなければ、ひょっとしたら私は変質者とか、何かの事件の犯人として施錠をにぎわしていたかもしれない。あるいは、人に迷惑をかけなくても、PTSDなどのような形で、精神的な痛手を受けつつ生活することを余儀なくされていたかもしれない。
信仰観をどのように変えたのか。それは、それまで絶対と思っていたものを、相対的視野でとらえるようになったのである。具体的にいえば、所属組織の上層部の人の発言に対して、「そういう見方もあるが、別の見方、例えばこういう見方もある」と客観的に見るようになったのである。礼拝で説教を聞いているときにも、ときには、「そんなバカな」と心の中でくすっと笑うようなことも出てくるようになった。
教義や教祖に対する信仰は変わらないにしても、礼拝での説教の聞き方はずいぶんと変わった。なるほどね、と納得して聞いたり、心の中で笑いがこみあげてきたり……。今、カルトという言葉が世の中でもてはやされており、一つの言葉や指示に対して、妄信、盲従してしまうような団体があるという。どうやら私の所属団体もその一つとみられているようである。が、どのようなカルトにも、良い面はよい面としてあるはずである。自分の所属する団体に対して、あるいはその中で語られる言葉に対して、そのように認識するようになったことが、精神的にかなり私を楽にした。
祝福に対しても、これが最も大切であるという認識に変わりはないにしても、現在の状態に耐えられなければ、ある所定の手続きを踏めば、再祝福というケースもある。文師の推薦で結ばれた二人は、お互いが信仰をもっていれば好き勝手に相手を取り換えることはできない。が、相手が信仰を捨てたとみられる場合、相手を再度信仰をもつように導くことが難しいときには、相手側の同意を得て、再祝福を受けることが可能である。このことを受け入れられるようになった時、私はやっと、拉致監禁の二次被害としての精神的苦痛から逃れることができた。
そういう精神的状態にしてくれたそのヒーリングサークルがあったので、私はヒーリングというのは本当に必要なことだな、と思っている。ゲームが終わった後は、一緒に食事をしたり、また別に日にちを取って、メンバーとともに主宰者の自宅に行って、家族同様のもてなしでくつろいだり……などという日々を過ごすうち、月日は経っていった。私は世界日報社を退社し、統一教会とは無縁の業界紙に記者として就職した。同じ統一教会ではあるが、世界日報社時代に所属していた教会から違う地域の教会に所属が変わったりもした。あとで同僚から聞いた話であるが、そうした変化の中で、私は統一教会を辞めたと思っていたらしい。ということは、世界日報社の同僚は、皆そう思っていたのかもしれない。
私は統一教会を辞めたことは一度もない。仕事の都合で礼拝に行けなくなったことはあり、そういう意味で足が遠のいた時期はあった。が、信仰を失ったことはない。ただ、視点は変わった。
そうこうしているうちに、二者択一を迫られる時期が来た。ずっとOKさんを待ち続けるか、再祝福を受けるか……。1992年8月25日、3万組の祝福合同結婚式が行われた。それに参加するかどうかを決めなければならなかった。
祝福、そしてそれによって定められた二人は永遠のカップルである。そういう視点から見れば、私は生涯OKさんを待つべきであった。最近、拉致監禁をなくす会の小出さんから、OKさんは生涯独身を決意したといっていたと、聞いた。ならば私は生涯待つべきであった。しかし、そのころは、OKさんの消息は全然知らなかった。
私が高崎教会の所属であったならば、OKさんの妹さんやTさんを通してもう少し頻繁にOKさん情報に触れることができたであろう。でも、何せ東京在住である。OKさんの状況がよくわからない。しかも、私自身は、精神的な痛手から這い上がる方向に進んでいた。
結果として、OKさんには大変申し訳ないことであったが、OKさんに意思確認の電話を入れた。その時にはOKさんに取り次いでもらえた。「祝福はどうされますか」「…………」「近く祝福があります」そうした会話の末に、一言だけ聞こえた。今となっては具体的な文言は覚えていない。しかし、その時の私は祝福解消でOKをもらったと解釈した。
何度思い出しても心に何とも言えない苦痛の残るシーンである。永遠にOKさんを待つのか、どうするのか。私はこの会話で、OKさんの永遠を奪ってしまったのか。常にその思いが去来する。しかし、ともかく私は再祝福への道を選んだ。それ以外に、重くのしかかる精神的苦痛から逃れるすべはなかった。OKさん、ごめんなさい。
それで、私の拉致監禁2次被害体験は終わった。それから約20年。拉致監禁をなくす会の後藤さん、小出さんと出会い、またあの荻窪フラワーホームのマンションを見ることとなった。そして小出さんが書いた本を、古本のネットで購入し、それを読んだ。その本の中で、私は再びOKさんと出会った。92年6月ごろの記述であった。今はどうしているのだろう。今もし出会ったら、どんな話ができるだろう。お詫びしないといけないことがいくつかある。それはすべてこの連載の中に書いた。そんな思いを抱きながら、この連載を終わる。駄文を最後まで読んでいただき、感謝に堪えない。このページのtopへ