サバイバーの集い 活動報告・感想
※ページを読み込むのに時間がかかる場合があります。グレーのタブメニューが表示されるまで少々お待ちください。
2009/10/10土) pm2~4 豊島区東部区民事務所 集会室
第1回 拉致監禁サバイバーの集い
<ある参加者の感想>
10日午後2時より5時まで、時間を一時間オーバーして、拉致監禁被害者の集いが開かれました。参加者は、臨床心理士の先生を含め合計4人でしたが、とても中身の濃い、充実した話し合いの場をもてました。
話すことで、自分の中だけに封印している気持ちを外に吐き出すことができ、気分が楽になったという参加者もいました。人数が少なくても、とてもいい集いになったと思います。
同じ思いを話して理解してもらうだけで、気持ちの重荷はずっと軽くなります。この点をアピールして、この集いにより多くの人に参加してほしいと思いました。
<SKさんの感想文>
このたび、10月10日に開催された、拉致監禁をなくす会の集いに参加させていただきました。
私が拉致監禁されたのが1992年8月。1ヶ月半のアパート監禁の状況のなか偽装退会をし、そして1994年12月に至るまで、軟禁、監視を受ける下での生活をすることとなりました。
その後、自らの希望する仕事を理由にあげて、地方都市へ移住し、その地域の統一教会にてさらに学びを続けてまいりました。
このたび参加させていただいた拉致監禁をなくす会の集いで、共に参加されていた方のお話しを伺う中で、皆様が私自身と似たような経験をされておられるゆえ、お互いの話しを聴き合うなかで、これまでの経験を理解し合い、心情を共有させていただくことができました。
それだけでも心に喜びを得ることが出来ました。
拉致監禁を受けた方は、監禁から解放された後においても、今もそのご家族に対しての心の激しい葛藤を抱えておられました。
拉致監禁により、その本人と両親家族、または親族との間において、それまで大切に築かれてきた愛情と信頼が、家庭外の第三者である、反対活動をする、キリスト教を名乗る牧師を中心とする人々により引き裂かれ、そのような結果、監禁をされた本人は、自らの家族の中で、その後も自分一人だけ、家族からも正常な人間としての扱いを認められず、常に疑われ、警戒され、そして、本人の話す言葉を無視されるなどを受け続けられることにより、本人の心に、後々癒やし難い深い傷を負わせることになって来ました。
私も、同じように心に傷と重荷を負いました。
私は監禁が解け、軟禁もゆるみはじめた時期に、思い切って、この統一原理を落ち着いて学び、信仰を確立するために、地方都市へ移住し、そちらの教会に移り、ちょうど10年間、家族、親族の興奮が収まるまで、生活していました。
私は、引っ越し先地域の統一教会信徒と兄弟姉妹として交わることによって、その傷を癒やすことが出来ることを信じて、地方へ出向きました。
ところが、統一教会の信徒でも、当人が拉致監禁のような経験を受けたことが無く、また、そのような拉致監禁実態の情報についても、あまり聞き受けて来なかった統一教会信徒兄弟姉妹は、このことに対して、なかなか深く理解まで出来ない様子でした。
このたびの集いでは、同じ体験をした方々が、話しを聴き合い、お互いの思いを理解し合うということが出来ましたので、このような場は大切であることを実感致しました。
そして私としても、このような拉致監禁がなぜ起きてしまうのかという、その原因と結果を見据え、このような事態が1日も早く無くなるよう努めたいと思いました。
まだこのような動きは始まったばかりのようですが、これまで何年も沈黙されてきた多くの方々の傷ついた魂がいやされ解放されることを願ってなりません。
2009/11/21(土) pm2~4 豊島区東部区民事務所 集会室
2009/12/26(土) pm2~4 豊島区東部区民事務所 集会室
第3回 拉致監禁サバイバーの集い
(これまで「拉致監禁被害者の集い」の名称で開いていたイベント)」を開催。4名の参加を得て、活発な議論が行われ、盛況裡に終了しました。
今回参加された方々は、実にエネルギッシュで、このエネルギーを今後当会主催の集会でもお借りして、進めていくことが大切であると実感させられた集会でした。そうした一方で、このイベントの根本目的である「癒し」について、趣旨説明の徹底を今後図り、心に深い痛手を受けた方々の更に深い癒しを図っていかなければならないとの改善点も確認できた集会でした。
今回「拉致監禁サバイバー」という用語を新しく用いました。これについては、「被害者」という言葉に対する違和感があるとのご意見が寄せられ、役員間の議論を通じて提案された「サバイバー」に「拉致監禁」という言葉をプラスしたものです。
「サバイバー」とは、(生きているだけですごいような困難な状況を)生き抜いた人の意味。性暴力、ドメスティックバイオレンス、虐待などのさまざまな暴力の被害者のことを特に指すものです(はてなキーワード参照)。この用語の用法としては精神医療サバイバー、虐待サバイバー、性虐待サバイバー、がんサバイバーなどのように用います。このうち精神医療サバイバーは「鍵と鉄格子に象徴される閉ざされた時代遅れの精神医療機関から地域社会へ生還できた人」を指すということで、一般的に使われています。
こういったことから、保護説得(拉致監禁)という大変な状況から脱出できた人を指す言葉として「拉致監禁サバイバー」と表現。今回の集会名に暫定使用いたしました。今後さらに検討を進め、拉致監禁という大変な環境を通過された方々の心によりフィットし、また社会的にも訴える効果のある言葉があれば、改善してまいります。
2010/01/23(土) am10~12 豊島区東部区民事務所 集会室
2010/02/27(土) pm2~4 文京区文京シビックセンター
2010/03/08(月) pm2~4 大阪府住吉区おりおのサロン
2010/03/27(土) pm2~4 豊島区東部区民事務所 集会室
2010/04/24(土) pm2~4 豊島区KYビル
第8回 拉致監禁サバイバーの集い
<小出代表の感想>
4月24日(土)の14~16時、大塚にて行なわれました。参加者は3名でした。この「集い」の中では、怒り、母親との関係、所属団体に対する思いなど、それぞれのテーマが浮かび上がってきます。今回の「集い」の中では、どうして「拉致・監禁」のようなことが起こってしまうのかということについて、深く広く考えるような流れになりました。
人の精神を根底から支える大切なものを、自由を拘束した状況の中で奪おうとすることが、心にどれだけ深い傷を負わせるのか。誰も、不幸に陥れようとは思っていないはずなのに・・・。そして多くの場合、今なおその親子関係や家族関係には深い溝が横たわっており、互いにそのことで胸を痛めています。直接的な情報と間接的な情報、個人の責任と組織の責任・・・などさまざまな要素が入り組んで、話し合っても平行線をたどった結果、「監禁」が実行されるということもあるでしょう。
さらに、「監禁された側」から言えば、「する側」の親や家族も、問題の本質をよく吟味しないままに実行してしまうという面があります。「~がとんでもなく悪い団体に入ってしまった」・・・そのイメージのもとに恐怖感や不安感を感じていることがうかがわれます。自分が正しいと思うものに反した行為を子ども(家族)がしていることに対する反応です。
そして、「とにかく」統一教会は悪い、早く脱会させねばならないという価値観が最優先され、その前提のもとに物事を進めようとします。そこでは、自分で物事を吟味しようという姿勢がなくなっていきます。
そのような環境の中で「された側」の人は、話をしようとしても、心が通じなかったことのむなしさ・恐怖感を感じます。その人自身を見るのではなく、「こうあらねばならない」あるいは「こうであってはならない」という価値観を優先して人を見てしまうことが、どれだけ人と人との関係をねじまげてしまうのでしょうか。人を「操作」しようとすることの危険が如実に出ています。
コミュニケーションの基本は「自分も相手も大切にする」ということでしょう。深い意味での「対話」は、どちらが正しいというところに固執するのではなく、自分の考えを大切にしつつも、相手がなぜそう思うのか(思わざるをえないのか)ということを汲み取ろうとするところから始まります。
「人権意識」と言うと思想的な面が強いように感じますが、実際は「共感性」ということとかなりの部分重なるのではないかと思います。日常的に、様々なレベル、様々な状況で同じ根を持つ現象は起っています。例えば、子どもが「どうして学校にいかなければならないの?」と疑問をぶつけてきたときに、「そんなの当たり前」とかわしてしまう親も多いことと思います(熟慮した上で、あえてそう反応するという場合もあり得るとは思うのですが)。
「拉致・監禁」の問題は、宗教という人間の根底的な面と関係するものであるだけに、それが最も極端なかたちで現れてきたものといえるでしょう。この問題を通じて、人と人との深いコミュニケーションはどのようなものなのか、今という時代に問われているような気もします。
第7回の集いの中では、「拉致・監禁」という行為は許せないという一方で、「する側」の胸のうちも理解しよう、共有しようという思いも語られました。
「拉致監禁サバイバーの集い」は例外的に参加者限定で行なわれることもありますが、基本的にはその体験者であればオープン参加ということになっています。
2010/05/29(土) pm2~4 豊島区東部区民事務所 集会室
2010/06/26(土) pm2~4 豊島区東部区民事務所 集会室
第10回 拉致監禁サバイバーの集い
<小出代表の感想>
参加者は1名でした。
「家庭」というと、例えば「一家団欒」のようなあたたかなイメージを思い浮かべる人が多いと思います。しかし、人間関係が近いがゆえに無意識のうちに相手に要求していたり、危険もあるのでしょう。
個人と個人が向き合うということ、人の生き方、人生観や世界観などを語り合ったり、なんとなくでも互いに理解しあえているような関係はどれだけあるのでしょうか?
拉致監禁を受けたときのショックやストレスも大きなものだが、それ以後の家族との心の壁が本当につらいと言う人は多いです。「まともな考えができないから統一教会なんかに入るんだ」「(「監禁」という)過去にいつまでもこだわっていてどうする」・・・。はっきり言葉に出すわけではなくても、そのような思いが伝わってくる、と。
もう一度家族間の対話を取り戻したい。それが今回の主なテーマだったと想います。家族が「拉致監禁」までしてしまう背景には、目の前の人そのものより「世間体」や「家(名)」を大事にしようという心性など、様々なものがあるようです。この問題を掘り下げていくには、日本人の民族性とも言えるような、私たちが無意識のうちに取り入れている行動様式まで視野に入れていくことも必要かもしれません。
2010/07/31(土) pm2~4 豊島区東部区民事務所 集会室
2010/08/28(土) pm2~4 文京区文京シビックセンター
第12回 拉致監禁サバイバーの集い
臨床心理士の遠藤先生より以下、ご報告いただきました。
第12回「拉致監禁サバイバーの集い」が8月28日(土)の14~16時、文京シビックセンターにて行なわれました。参加者は3名でした。
今回の集まりでは、個人的な体験と並行して、人と人との望ましい関わり方とはどんなものかということも話題になりました。
相手の言葉に本当に耳を傾けるということは、当たり前のようですが、なかかな難しいことでもあります。
社会的に成功を収め、しっかりしているように見える人でも、ついつい自分の意見を人に押し付けけてしまうことがあります。相手の感性が違う場合、それは大きな負担になりかねません。また、社会経験・人生経験の乏しい人が上の立場に立った場合、さまざまな考え方があること自体がわからないということがあります。そうなると、指示を受ける立場の人はたいへんです。
そのような経験を重ねることで「言ってもしょうがない」とコミュニケーションそのものをあきらめてしまうことにもなりかねません。
長年の親子関係のひずみが宗教を求める遠因になるということはよくあることです。また、組織の中でのコミュニケーションのギャップがその組織のあり方をゆがめてしまうこともあります。
「拉致監禁」について語るとき、教会の側もそれに反対する側も、互いに自分の正当性を主張して対立することが多いようです。
しかし、「その人」一人の心を大切にケアしようとするなら、幼い頃からの親子関係、教会に入ってからの出来事、その他の経験・・・など様々な点から深く、総合的に理解する必要があります。どのようにしたらそのためのコミュニケーションが成り立つのかという視点も、そろそろ必要ではないかと思われます。
2010/09/25(土) pm2~4 文京区文京シビックセンター